堺ーー東洋のベニス Sakai
目次ーーIndex
山口家住宅ーーHistory
妙國寺がまだ営業時間前なので先に「山口家住宅」に寄ってきました。
ーー入館料¥200
土間が広く、白壁に炭のように黒いたくさんの梁が特徴的です。観光ボランティア
の人に案内してもらい隅々まで見学しました。こんなだだっ広い家に山口さんは
平成まで暮らしていたそうです。
山口家住宅の主屋は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣の戦火により市街地が
全焼した直後に建てられました。
国内でも現存する数少ない江戸時代初期の町家のひとつとして昭和41年(1966年)
重要文化財に指定されています。増改築工事を繰り返し施工したにも関わらず
継目や施工箇所を遠目で見ただけでは修繕箇所がわからないですが、それでも
表面の仕上げ方に違いが見られ、技術の進歩が見て取れます。
5月なので堺名物の鯉のぼりや甲冑も見られました。今住むとなると便所に行くのに
一回一回土間を経由したり、冬場は寒くとても快適とはいえない環境ですが今現在
結構なペースで町屋が失われています。人が住まないと管理する人がいないため
老朽化が進んでいきます。
ーー町屋に住みたいと考えているなら早いほうがいいですよ
妙國寺ーーTemple
山口家住宅から迷いながらも案内表を見て戻ってこれました。
この場所では二つの事件で有名です。
一つ目は、
妙國寺のソテツ
かの織田信長が気に入り、安土城に移植したが毎夜「堺へ帰りたい、堺へ帰りたい」
とすすり泣いたため激怒した織田信長が森蘭丸に命じて切り刻んだところ、
血のようなものが流れ出て織田信長が恐れ堺へ戻された。
二つ目は、
堺事件(妙國寺事件)
慶応4年(1868)当時は開港地になっており、上陸してきたフランス兵と堺の警備に
あたっていた土佐藩士との間で争いが起こりフランス人多数が死傷した。
この事件は国際問題に発展し、責任を追及された土佐藩士11名が妙國寺の境内にて
処刑が行われ、事件は収束。
国指定の天然記念物であるソテツは撮影が禁止なので写真はありませんが
添え木で固定されとても大事に扱われていることがわかります。
ーー本当に切ったら赤い血のようなものが流れるか試してみたいものです。
堺事件の跡地では石碑が建ててあり、生き残った隊士が描いた切腹の絵が当時の様子
を物語っています。山門付近には「とさのさむらいはらきりのはか」と書かれている
石碑もあります。
戦争で焼けなかった数々の宝物は一見の価値ありです。ボランティアの人の説明付き
でさらに面白さが倍増します。堺事件のときの返り血や豊臣秀吉のゆかりの品
どれも本物です。
ーー歴史好きな方におすすめのスポットです
与謝野晶子生家跡ーーTraces
与謝野晶子といえば教科書に必ずと言っていいほど載っている日本を代表する歌人です。
代表作は「みだれ髪」「君死にたまふことなかれ」子宝にも恵まれ、なんと11人の子供
も授かりました。
青春時代をここ堺で過ごし、古典など小説に親しみ今日まで残る文学書を書いてきました。
特に「源氏物語」の現代語訳を発表したことは古文が読めない人でも読めるように
なったのでその後、多くの人に影響を与えました。
ーー歩道にあるのでなかなか見つけづらいと思います
千利休屋敷址ーーRuins
◆Pick up◆
千利休
大永2年(1522年)、堺今市町(現在の宿院西1丁)の豪商魚屋(ととや)の長男・与四郎
として生まれる。
17歳の時、北向道陳に茶湯を学び織田信長、豊臣秀吉と時代の天下人に茶頭として
従事する。
さかい利晶の社の隣にあります。
屋敷址は千利休らしくとてもシンプルにまとめられています。
井戸屋形で使われている木材は実際に大徳寺山門で使用されています。
もしかしたら千利休が触っていたかもしれない貴重な部材です。
ここでもガイドの人が親切で色々と教えてくれました。千利休切腹の表向の理由
は大徳寺の三門金毛閣に自身を象った像を置き、秀吉がその下を通らせることで
秀吉より上に立ったと思われることです。
しかし、利休は茶の湯を通して様々な諸大名や権力者を味方に付け日に日に勢力
が強まっていったことにも起因しているかもしれません。
真相が解き明かされることはあるのでしょうかーー
お食事処 茶花椀ーーGourmet
「古墳カレー」が食べられるのはここだけ!
おかあさんに話を聞いてみると市から古墳にまつわる名産品を作ってくれと言われた
そうです。
古墳といってもお墓だからねえ…と考えた結果ーー
写真の古墳カレーを思いついたそうです。店内はテーブル席一つとカウンター一つ。
それがおかあさんとの距離を縮め話しやすくなる環境を作り出すのだと思います。
机に置かれたノートには著名人やTV局など様々な人種の人がサインやら味の感想
を書き込まれていました。
ーーもちろん私も書き込みました
カレーは地域特産のいちじくやフルーティに仕上がっています。
色々な具材がよく煮込まれておりコクと旨味が凝縮されています。
スプーンもスコップ仕様となっており、おかあさんの徹底的なこだわりが感じられます。
ーー甘口から辛口まであるそうですがおかあさん曰くかなり辛いそうです。
TELL:072-244-8725
営業時間:11時00分~19時00分
定休日:不定休
駐車場:なし
仁徳天皇陵古墳ーーHistoric
工事に従事していると鹿が苛原から走り出てきて倒れました。
調べてみると鹿の耳から百舌鳥が飛び去り、耳の中が喰いさかれていたのでこの
場所を「百舌鳥耳原」と名づけたと記されています。
国内最大の前方後円墳でエジプトのクフ王のピラミッドと中国の始皇帝より歴史
が古く両方とも丸々一個入る大きさです。
隣には公園があり貴重な史跡に触れつつ市民の憩いの場となっております。
縮尺1/250ーー仁徳陵を当時の技術で建設するためには1日あたり2,000人
延べ680万7,000人を動員して15年8ヶ月の工事期間を要するそうです。
ーーまさに一大国家プロジェクト!
堺市博物館ーーMuseum
千利休の像が迎えてくれる古墳にまつわる品々が展示されている博物館で倭の時代
から堺の歴史がよくわかります。
博物館のコンセプトは「一部の専門家や好事家のためのものではなく、広汎な市民
のためのもの」
中でも火縄銃について詳しく説明があったので紹介したいと思います。
現存する日本最長の火縄銃「慶長大火縄銃」です。
この銃は大坂の陣にて大阪城を攻撃するための試作品として作ったものと伝えられています。
ーー重そうですけど今の洗練されている銃よりかっこいいですね!
Column
火縄銃っていくらだったの?
・足軽が使うようなもの 約40匁
・一番高いもの 約銀280匁
その頃の米の値段ーー米一石 約140匁
※一石は、1人が1年間生活するために消費するお米の量
「米百俵」じゃないですけどあなたは鉄砲一挺と2年分の生活費どっちを取りますか?
VR体験も出来るため、早めに予約を取らないと初めてVRを体験したんですが
空を舞っているような感覚で上空から古墳全体を見渡せますが慣れないと酔ってしまいます。
ーーここまで歩き通しだったので半分寝ていました(笑)
自転車博物館ーーMusium
大仙公園内の国内に一つしかない「自転車博物館」に行ってきました。
堺は「さか」という文字が入ってるのに関わらず坂が非常に少ない地域です。
「自転車の町、堺」自転車を利用しやすいまちづくりを目指しています。
原初の木製自転車は1818年ドイツのカール・ドルイスによって発明されました。
サドルに跨り、地面を足で蹴って走る仕組みです。
1869年に発明された「ペニーファージング」喜劇王チャップリンで有名です。
無駄な部分がなく、精錬されたデザインなので現在でもファンが多い自転車です。
乗り降りに手間がかかり、バランスが取りづく転倒しやすいので次第に姿を消して
いきました。ブレーキを付けたところで転ぶため意味をなしません。
これは…ヤッターマンでよく見ます。息を合わせないと進まないので悪役3人組
はなんだかんだ仲が良いみたいですね。
「セーフティバイシクル」
1879年この頃から現代の自転車のデザインと遜色ないレベルです。
安全性が考慮され、また大量生産も可能になったため全世界へ広まりました。
最上階は世界のロードレースで使われた自転車のモデルが飾ってあります。
館内全て自転車だらけですーー
地元の学生によって考えられた「こんな自転車がほしかってん」ではおよそ技術的
に厳しいものから福祉について考慮したものまで真剣に考えたことが伝わります。
公園内にある大きな塔。中に入れないし、何のための塔か周辺を探ってみたら
「平和塔」でした。
太平洋戦争の犠牲者を追卓するモニュメントが全国にあるので私たちは今日の平和
と繁栄を忘れてはいけませんねーー
旧堺燈台ーーRighthouse
今回最も行きたかった場所です。
時間的にタイミングが良く「旧堺燈台」の夕日を拝むことが出来ました。
史跡 旧堺燈台
・明治10(1877)年に建築された建物で所在を変えずに現存する木造洋式燈台として
最も古いもののひとつ。
・100年の間、大阪湾を照らし続けたが、沖に向かって広がる埋め立てのため
昭和43年(1968)年にその役割を終えました。
1年に一回中に入れるらしいです。
昨今ではコンクリート製が多い灯台ですが白塗りの、しかも木造。経年劣化が激しく
平成19年に復元整備を行いました。
総括ーーSummary
いかかでしょうか、堺町歩きーー
堺では京都が戦乱で荒廃していたときに自治都市で比較的安全だった堺に避難
したため現在でも多くの歴史的文化遺産が残っています。
最初、最も栄えた堺を開港し外国と貿易を行おうとしていました。
しかし、古墳など歴史的価値が多いため第二候補の神戸を開港しました。
ーーおかげで歴史的遺産が時代から取り残され踏み荒らされることなく今日まで
現存する結果になりました
川には堺名物、鯉のぼりが風で揺れていました。
天候に恵まれ丁度良い探訪日和でした。
次回はーー平野郷歴史のまちなみ、地獄と極楽に波に揺られてです