【大浦天主堂】in長崎6ーー信徒発見の奇跡から150年。殉教の丘を見つめる世界遺産

長崎ーーNagasaki
長崎ーー平和と祈りの都市 Nagasaki
日本に現存する最古の木造教会として大浦天主堂
と関連施設は国宝に指定されています。
 
天主堂は西坂で殉教した二十六聖人に捧げるため
殉教地に建てたかったのですが、居留地以外は許さ
れず現在の南山手の地が選ばれました。
ーー殉教地である西坂に向けて建てられています
 

Column

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
キリスト教宣教地の日本列島の東端にあたる
長崎と天草地方は最も集中的に宣教が行われた

◆禁教令の中で長崎と天草地方において一般
社会と共生しながら信仰を続けた証明となる
遺産群

◆潜伏キリシタンの伝統の始まりからその形成
維持、拡大の軌跡。終焉を迎えるまでの歴史を
語る上で必要不可欠な12の構成資産

 
外観は黒地に白い格子のナマコ壁、内部は西洋風
リブ・ボールト天井(こうもり天井)という和洋折衷
の建物です。長崎の人々はふらんす寺と呼び、観光
に訪れました。
 
原爆投下で一度は破壊されましたが建て直して再度
国宝に指定されたそうです。
 
◆Pick up◆

大浦天主堂

築造年:1864年(文久4)
設計者:フランス人宣教師 フェーレ神父
構造:ゴシック様式 

◯正式名称「日本二十六聖殉教者天主堂」

◯2007年世界文化遺産、長崎の教会群と
 キリスト教関連遺産

◯構成資産(旧羅典神学校、旧伝道師学校
 旧長崎大司教館)

日本最古の天主堂

 
このマリア像には「日本乃聖母」誕生の秘話があります。
信徒発見の翌日、浦上の信者たちが大金を持って
きて「天守様とマリア様に捧げるのです」と言いました。
 
それを見たプティジャン神父は信徒発見の記念
としてフランスにマリア様を発注しました。
 
撮影不可のため、写真は外観しかありません。
ステンドグラスが美しい空間に安置されている
”信徒発見のマリア像”に心惹かれました。
 
旧羅典神学校
禁教が解除されると外海地区の主任司祭である
ド・ロ神父が設計した木造建築「長崎公教神学校」
が1875年に開設されました。
 
ラテン語でミサをあげていたため、授業もラテン語
で行われ”羅典神学校”と呼ばれ、多くの日本人司祭を
輩出しました。
現在はキリシタン資料室になっています。
 
大浦天主堂建設に奔走したプティジャン神父の資金
の工面から二十六聖人、禁教250年から信徒発見
までの歴史が踏絵などイエス・キリストの生涯を
シアターで紹介したりと貴重な資料を通して歴史
が学べます。
 
旧長崎大司教館
ド・ロ神父の設計でレンガ造り。
完成の前年、”教会建築の名手”といわれたド・ロ
神父の最後の作品となりました。
 
ザビエル上陸からキリスト教の伝来、長崎
で最も繁栄した戦国時代。ド・ロ神父の偉業、世界
文化遺産への歩みといったキリスト教が伝えてきた
など、日本のキリスト教について詳細な展示内容に
なっています
 
1865年3月17日浦上の潜伏キリシタンが
プティジャン神父に信仰を告白しました。
このときの出来事を神父はこう綴っています。
 
12時半頃、男女子ども合わせ12~15名が
天主堂の門の前にいました。
 
私が聖堂に案内して祈ると、40ないし50歳位
の婦人が胸に手をあてて申しました。
「私共は、全部あなた様と同じ心でございます
浦上では全部の人が同じ心を持っております」
 
そして婦人は私に聞きました。
「サンタ・マリアの銅像はどこ?」
私が聖母像の祭壇に案内すると喜びのあまり口々に言いました。
「本当にサンタ・マリアさまだ!御子イエズスさまを抱いてらっしゃる。」
 
このことは浦上ですぐに広まり、翌日から大勢
が夜間や早朝に役人の目を盗んで天主堂にやっ
てきた。
さらには、外海地方や五島からも天主堂を訪れ
た者もいた。
※一部抜粋
 
禁教令が敷かれ、厳しい迫害や弾圧のなか、もはや
日本にはキリシタンが一人もいなくなったと信じ
られていたのに信仰が途絶えなかったことは奇跡
です。
 
このとき、プティジャン神父はどう思ったこと
でしょう。そして浦上からこの地を訪れ、250年
に渡って待ち望んでいた神父との出会い、夢にまで
見たマリア様との邂逅を果たした信者たちはどう
思ったことでしょうかーー
 
住所:長崎市南山手町5-3
TELL:095-823-2628
開館時間:8時00分~18時00分
     (受付は17時30まで)
休館日:教会行事による
拝観料:大人¥1,000 中高生¥400 
    小学生¥300

関連サイトhttps://nagasaki-oura-church.jp/

日本二十六聖人記念館ーーMemorial

1597年(慶長元年)12月19日、6名の外国人と20名
の日本人が豊臣秀吉のキリシタン禁教令に背き
棄教しなかったため、捕縛され長崎に護送されて
処刑されました。
 
26名の殉教は遠くヨーロッパにまで伝わり
1862年(文久2)ローマ教皇は26名の殉教者を聖人
に列し「日本二十六聖人」と称されました。
ーースターウオーズのハン・ソロが炭素冷凍された
  姿と似てると思ってしまいました
 
日本二十六聖人記念館のある場所は、西坂の丘と
言われていて、カトリック教徒の方にとっては聖地
であり、世界の巡礼地に指定されています。
 
また、ルイス・フロイスが日本滞在中、最後にこの
地を訪れ日本の歴史を世界中に語り継いでいます。
誰もいないせいか、静寂に包まれ、神社にいる
ときのような不思議な感覚になりました。
 
この二十六聖人のレリーフの裏に記念館があるため
少しわかりづらいです。
 
記念館の近くには記念聖堂があり、ガウディの
サクラダ・ファミリアのような搭がデザイン
されています。
 
工事中だったので全体は見れませんが、上の搭だけ
辛うじて見れました。
 
レリーフの裏側は26聖人をキリスト教のシンボル
である葡萄に例え、出発地には「きょうと」の
文字。長崎までの道のりを表現しています。
 
最初のフィリピン人殉教者ーー聖ロレンゾ・ルイス
様々な拷問を受けたのち、穴吊りによって西坂の地
で殉教。教皇聖ヨハネ・パウロ二世により
1987年に列聖されました。
 
人類歴史学上でもキリスト教的にも貴重な資料が
たくさんあります。
しかも、館内の資料全てフラッシュなしで撮影可能
といいますから驚愕です。
 
1階は26聖人の旅から始まり、迫害・殉教までの
道のり。特別展のかくれキリシタン関連の展示は
興味深く、時間をかけて周りました。
 
スペインで有名になった26聖人の銅版画。
日本の出来事なのに向こうの国のほうが有名になる
なんて文化の違いを感じさせます。
 
二十六聖人の一人、三木パウロが磔刑に処され
ながら集まった群衆に「自分の処刑を命じた人
(豊臣秀吉)と処刑にかかわったすべての人を
許したい」と叫びました。
 
まさに隣人を愛しなさいというイエス・キリスト
の教えを貫いた人生でした。
 
マーティン・スコセッシ監督の「沈黙-サイレンス-」
で信仰の象徴である「雪のサンタ・マリア」
 
石造りの”マリア観音”は隠れキリシタンの仏教関連
のものを用いてキリスト教の信仰対象としたものの
中でも人気が高かったみたいです。
 
旧浦上天主堂の壁面にあり、原爆の被害を受けた
被爆した天使像の頭部。復興のシンボルとして
長崎を見守ってきました。
 
建築家ーー今井兼次作の記念館は建築をもって
殉教者の心を伝えようと表現しました。
 
2階にある「栄光の間」はその目的を顕著に表し
ています。
 
聖堂内は成人の遺骨や遺物が安置されており壁側
には被爆したマリア観音像が慈愛に満ちた表情で
佇んでいます。
ーーマザーテレサも祈りを捧げた聖地です
 
細川忠興の正室、明智光秀の娘で知られる
玉=「細川ガラシャ」
 
知識と美貌に優れ、最後まで夫とキリシタンの教え
に忠実でした。
そのため、日本だけでなく、ヨーロッパでも女性の
憧れであり夫人の模範とされています。
 
2階で一番目立つフレスコ画は「長崎の道」という
タイトルです。
 
二十六聖人が京都から長崎まで1597年の1月4日~
2月5日かけて歩いた場面が描かれています。
 
有名な二十六聖人のレリーフだけ見て帰りがちです
がそれはすごくもったいないです。
 
人々の記憶から消えてしまいそうな、かくれキリシ
タンや日本に多大な影響を与えたキリシタン文化に
触れてみませんか。
 
カトリック教徒だけでなく訪れる人は来る者拒まず
去るもの追わずですーー
 
住所:長崎県長崎市西坂町7−8
TELL:095-822-6000
開館時間:9時00分~17時00分
休館日:年末年始
観覧料:一般¥500 高・中¥300 
    小学生¥150 

関連サイトhttp://www.26martyrs.com/

 
寄り道ーーYORIMICHI
A little detour
カトリック大浦教会
世界遺産の町並みである周囲の建物との調和を考慮
し、赤レンガ風の外観になりました。
 
国宝大浦天主堂が、観光客の増加に伴い、祈りの場
として不都合となってきたため、1975年(昭和50)
小教区信徒のために、長崎教区が大浦天王堂の隣接
地に新たに建立しました。
 
住所:長崎市南山手町2-18
TELL:095-827-0623
開館時間:ー
休館日:教会行事による
拝観料:無料

関連サイトhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~fukuokahatu/nagasaki_oourakyoukai.html

総括ーーSummary

1978年、ローマ教皇に就任したヨハネ・パウロ2世
は世界平和への巡礼のために世界中を飛び回り
「空飛ぶ聖座」といわれました。
 
1981年には極東訪問に旅立ち、2月25日に広島
その夜に教皇が最も訪問を希望した長崎に到着。
長崎の信者にとっても待ちわびた瞬間で
「4世紀の間教皇をお待ちしていました」
と里脇大司教が歓迎の辞をのべました。
 
西坂の殉教地を訪れ”至福の丘”と名付け、信徒発見
の場となった大浦天主堂では信徒を見守ったマリア
像を眺め、原爆ホームで被爆者を励まし4日間の
訪日を締めくくりました。
 
2008年、188殉教者の列福式が長崎で行われまし
た。全員が1614年の禁教令前後に殉教した日本人で
ペトロ岐部神父やジュリアン中浦神父の他は
ほとんどが名も無い武士や庶民でした。
 
(次回)ーー長崎の歴史的建造物
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