中津ーー山国川の河口に築きし城下町 Nakatsu
中津城ーーCastle
黒田孝高(如水)が豊臣秀吉の命により九州
を平定した後、中津16万石を拝領して
1588年(天正16)中津川河口周防灘に水城
ーー中津城を築きました。
西に山国川、南と東に大家川(忠興が築いた金谷堤によりふさがれた)
北に周防灘を控えた要害の地、豊前の六郡ーー中津を選びました。
廃藩置県の際、藩士福沢諭吉により城内のほと
んどの建造物が破却され、御殿のみが小倉県
中津支庁舎として残存しました。
んどの建造物が破却され、御殿のみが小倉県
中津支庁舎として残存しました。
しかし、1877年(明治10)の西南戦争の戦火に
よりその御殿も消失してしまいました。
よりその御殿も消失してしまいました。
1964年(昭和39)旧藩主奥平家が中心となり
中津市民からの寄付により模擬天守閣を建造しました。
中津市民からの寄付により模擬天守閣を建造しました。
駐車場は広くて無料で周辺の観光の起点となります。
砂利敷きのため、雨の日は愛車が汚れるため
要注意です。
要注意です。
ーー福岡に戻るためにこの場所に車を停めて
電車に乗ったのはナイショです
電車に乗ったのはナイショです
◆Pick up◆
中津城 別名:扇城
築造年:1588年(天正16)
築造主:黒田官兵衛(如水)、細川忠興(完成)
構造:城郭ー梯郭式平城、天守ー不明
1964年模擬天守ーRC造独立式望楼型5重5階
◯続日本100名城
◯日本三大水城
◯水門より海水を取り入り、潮の満干で壕の水が増減する
Column
「日本三大水城」
◆【中津城】(大分県中津市)
中津川河口周防灘。築城主:黒田官兵衛
築城年:1588年(天正16)
◆【高松城】(香川県高松市)
瀬戸内海。築城主:生駒親正
築城年:1590年(天正18)
◆【今治城】(愛媛県今治市)
海浜平城来島海峡。築城主:藤堂高虎
築城年:1602年(慶長7)
中津城は水城の中で築城年が最も古く
黒田孝高が普請した右側の石垣と1588年
(天正16年)に細川忠興が普請された現存する
近世城郭の石垣の両方存在します。
近世城郭の石垣の両方存在します。
ーー両時代の石垣とも花崗岩が多く使われて
います
います
y字型の目地を境に黒田家の石垣(右側)と細川家
の石垣(左側)が積まれています。
の石垣(左側)が積まれています。
黒田時代の石垣は古代山城から持ち出している
ため、全体的に四角に加工された石で造られています。
ため、全体的に四角に加工された石で造られています。
夫婦そろった石像が並んでいる様子からわかる
とおり黒田官兵衛は愛妻家として有名です。
とおり黒田官兵衛は愛妻家として有名です。
戦国武将、大名には珍しく正室の光姫(照福院殿)
以外、側室を持たずただ一人を生涯愛し続け
晩年は和歌や茶道を嗜み2人で仲睦まじく暮らしていたそうです。
以外、側室を持たずただ一人を生涯愛し続け
晩年は和歌や茶道を嗜み2人で仲睦まじく暮らしていたそうです。
江戸時代の絵図には天守は描かれていません
が、残っている黒田官兵衛の手紙には
「天守に銭を積んで蓄えた」と記してあった
ため、建設されていた可能性が高いです。
が、残っている黒田官兵衛の手紙には
「天守に銭を積んで蓄えた」と記してあった
ため、建設されていた可能性が高いです。
模擬天守閣の中は歴史資料館となっています。
1階は売店。御守り「黒官石」勝運の石は戦に
負け知らずの官兵衛にあやかっています。
負け知らずの官兵衛にあやかっています。
長篠の戦いで実際に使用された道具や歴代藩主
の馴染みの深い家宝などが展示されています。
の馴染みの深い家宝などが展示されています。
特に「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」の御木
像や絵が展示されていることには驚きました。
像や絵が展示されていることには驚きました。
ーー絵だと性的描写に引っかかる可能性がある
ので木造を貼っておきます
ので木造を貼っておきます
天守からの眺めだけでも登城する価値は大いに
あります。
あります。
市内一望できることに加え、スムーズな物資や
兵員の輸送の経路を想像できたり妄想が捗ります。
兵員の輸送の経路を想像できたり妄想が捗ります。
中津は交通の便が良いところに目を付けた官兵
衛が瀬戸内海の海路を使って大分県→山口県
→広島県→大坂とわずか3日で迅速に情報や
物資が確保するために適した立地です。
衛が瀬戸内海の海路を使って大分県→山口県
→広島県→大坂とわずか3日で迅速に情報や
物資が確保するために適した立地です。
なんとなくわかるーー黒田官兵衛(如水)ー1/3
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康に名軍師
と謳われた57戦無敗の稀代の武将。
と謳われた57戦無敗の稀代の武将。
1546年(天文15)12月22日黒田職隆の嫡男
として播磨国の姫路に生まれた。
として播磨国の姫路に生まれた。
ーー代々黒田家伝の目薬を製造・販売し、
生計を立てた
生計を立てた
ーー恩師に軍師張良の話を教えられる
⇩
小寺政職の姪にあたる光(てる)を正室に迎
え、姫路城代となる。
え、姫路城代となる。
ーー1568年、嫡男松寿丸(黒田長政)が誕生
勢いに乗る織田信長と、山陰・山陽を支配
する。毛利輝元に挟まれ、主君小寺政職に
織田氏への臣従を進言。
する。毛利輝元に挟まれ、主君小寺政職に
織田氏への臣従を進言。
ーー姫路城をそっくりそのまま秀吉に献上
し参謀として活躍する
し参謀として活躍する
⇩
1578年、織田信長に反旗を翻し有岡城の
荒木村重を説得するも捕らえられ土牢に
有岡城が陥落するまで投獄されてしまう。
荒木村重を説得するも捕らえられ土牢に
有岡城が陥落するまで投獄されてしまう。
ーー信長に寝返ったと言われ、嫡男松寿丸
が処刑されるが竹中半兵衛が秘密裏に
匿っていた
が処刑されるが竹中半兵衛が秘密裏に
匿っていた
また、牢獄の看守であった加藤重徳は官兵
衛を丁重に世話したことでその子を養子に
し、長政は松寿丸を助けた竹中半兵衛の子
竹中重門を養育した。
衛を丁重に世話したことでその子を養子に
し、長政は松寿丸を助けた竹中半兵衛の子
竹中重門を養育した。
ーー恩を忘れない律儀な武将だった
⇩
勘兵衛はやせ衰えて衰弱しきり足腰が
立たない状態となったため湯治場で体力
回復を図る。
立たない状態となったため湯治場で体力
回復を図る。
ーー土牢から唯一見えた藤(フジ)を
「家紋」に選ぶ
「家紋」に選ぶ
ーー忠義心に厚い家臣に救出される
官兵衛を裏切った小寺政職は大名として
滅んだが長男の氏職は後に黒田氏に仕える。
滅んだが長男の氏職は後に黒田氏に仕える。
ーーこれ以降、黒田性を名乗るようになる
なんとなくわかるーー黒田官兵衛(如水)ー2/3
秀吉の与力となってからは、山崎城の
築城、鳥取城攻め備中高松城の戦いなど
の戦術や戦略を高く評価される。
築城、鳥取城攻め備中高松城の戦いなど
の戦術や戦略を高く評価される。
ーー兵糧攻め、水攻めなど”戦わずして勝つ”
⇩
1582年本能寺の変
いち早く情報を得た官兵衛は、秀吉に対し
て、すぐさま毛利輝元と和睦するよう進言
する。
て、すぐさま毛利輝元と和睦するよう進言
する。
中国大返しを成功させ、山崎の戦いで光秀
を討つ。
を討つ。
ーー殿を務めた官兵衛は毛利の旗を借り
諸国の大名を味方につけた
諸国の大名を味方につけた
ーー清洲会議で三法師擁立を考案したとも
いわれる
いわれる
⇩
1583年賤ケ岳の戦い、1584年小牧・長久
手の戦い、1585年四国征伐、1586年九州
平定。
手の戦い、1585年四国征伐、1586年九州
平定。
数々の戦功により、豊前国のうち6郡
16万石を賜り中津城の築城を始める。
16万石を賜り中津城の築城を始める。
ーーこの頃に高山右近や蒲生氏郷らに勧め
られ「シメオン」の洗礼名を与えら
れる
られ「シメオン」の洗礼名を与えら
れる
ーー豊前12万石の小大名に封じられたのは
秀吉が官兵衛の才知を恐れたからだと
いわれる
秀吉が官兵衛の才知を恐れたからだと
いわれる
⇩
家督を長政に譲り、秀吉の側近となる。
1590年(天正18)小田原征伐で小田原城に
使者として赴き北条氏政・氏直父子を
説得し、無血開城させる。
使者として赴き北条氏政・氏直父子を
説得し、無血開城させる。
ーー家督を譲ることは許可されたが、隠居
は許されなかった
は許されなかった
ーー秀吉は和睦の条件を破り、氏政は切腹
氏直は助命
氏直は助命
⇩
1592年(文禄元年)朝鮮出兵
所々で戦果を挙げるものの慣れない土地と
多くの武将の足並みが揃わなかったため
戦線を縮小する。
多くの武将の足並みが揃わなかったため
戦線を縮小する。
それを石田三成などに告げ口され、秀吉の
怒りを買う。
怒りを買う。
ーー以後”如水”と名乗り隠居を許さ
れる
れる
なんとなくわかるーー黒田官兵衛(如水)ー3/3
1598年(慶長3)豊臣秀吉死去
1600年(慶長5)関ヶ原の戦い
ーー長政は官兵衛の助言通り、豊臣恩顧の
大名の多くを調略に成功し、”一番の
功労者”と称えられる
大名の多くを調略に成功し、”一番の
功労者”と称えられる
ーー筑前国名島(福岡藩)52万3000余石を
与えられる
与えられる
一方、関ヶ原の戦いの間、官兵衛は全ての
資金を注ぎ込み集めた兵士と加藤清正軍と
共に家康側に加勢し、九州の西軍拠点を攻める。
資金を注ぎ込み集めた兵士と加藤清正軍と
共に家康側に加勢し、九州の西軍拠点を攻める。
破竹の勢いで諸城を降伏させ、大友軍を
撃破するも島津討伐の最中、関ケ原の勝敗
が決し、軍を解散。
ーー東軍と西軍の戦いが長引けば、第3勢力
として拮抗できると野心を抱いてた
可能性がある
が決し、軍を解散。
ーー東軍と西軍の戦いが長引けば、第3勢力
として拮抗できると野心を抱いてた
可能性がある
ーー諸大名や大友を滅ぼすことはしないで
配下に加えた
配下に加えた
⇩
晩年は正室の光と仲睦まじく余生を送っ
た。享年59。床に臥せってからは家臣に
つらく当たっていた。
た。享年59。床に臥せってからは家臣に
つらく当たっていた。
ーー自らが嫌われ役となることで長政に
求心力を集める狙いがあると長政に
小声で伝える
求心力を集める狙いがあると長政に
小声で伝える
ーー家臣の殉職を禁じるため
辞世の句「おもひおく 言の葉なくて
つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて」
つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて」
併設された黒田官兵衛資料館はNHK大河ドラマ
「軍師官兵衛」で使われた小道具や官兵衛の
年表や逸話がパネルで紹介しています。
年表や逸話がパネルで紹介しています。
お椀をひっくり返したような変わり兜である
「合子形兜(ごうすなりかぶと)」は正室光姫の
父から婚約祝いに贈られ、戦場では
”如水の赤合子”と恐れられていました。
”如水の赤合子”と恐れられていました。
川沿いに立地している中津城ビュースポット
からは北に豊前海が広がっている様子が見られます。
からは北に豊前海が広がっている様子が見られます。
中津川河川敷公園からは中津城の立派な石垣を
やベンチが設置してあるので川をぼーっと眺め
たり癒され効果が期待できます。
たり癒され効果が期待できます。
住所:大分県中津市二ノ丁本丸
TELL:0979-22-3651
営業時間:9時00分~17時00分
休城日:年中無休
入城料:大人¥400 子供¥200
城下町史跡めぐりーーCourse
中津城のお膝元にもいくつかの神社が創建して
います。城内に属した中津大神宮、城井神社
中津神社の3社からは御朱印がもらえます。
います。城内に属した中津大神宮、城井神社
中津神社の3社からは御朱印がもらえます。
城井神社
御祭神ーー城井谷城主宇都宮鎮房
本領安堵を願ったが、四国今治への移封を命じ
られ宇都宮氏と黒田氏は戦を繰り返すことに
なりました。
られ宇都宮氏と黒田氏は戦を繰り返すことに
なりました。
そのため、所領安堵を条件として長政と鎮房の
息女千代姫(鶴姫)を婚約させ和睦しました。
息女千代姫(鶴姫)を婚約させ和睦しました。
しかし、酒宴の席で鎮房は謀殺され、嫡男や
鶴姫など殺害されました。
鶴姫など殺害されました。
戦国にあって黒田家の暗部を表している神社
です。
です。
長政は鎮房の亡霊を恐れ、官兵衛は鎮房の
勇将さを惜しみ城井神社を創建し鎮房を
祀っています。さらに福岡城にも創建されました。
勇将さを惜しみ城井神社を創建し鎮房を
祀っています。さらに福岡城にも創建されました。
中津城扇状の旧城下町には、今でも築城した
黒田官兵衛にちなんだ「姫路町」や「京町」
などの町名が残ります。
黒田官兵衛にちなんだ「姫路町」や「京町」
などの町名が残ります。
中津城の東側の寺町には寺院が集中している
ため総構えの役割を果たしていて、狭い路地
や複雑に曲がった道など今でもその名残が残っています。
ため総構えの役割を果たしていて、狭い路地
や複雑に曲がった道など今でもその名残が残っています。
合元寺
官兵衛と共に姫路から中津に来た空誉上人
(くうよしょうにん)が建立した鮮やかな
深紅の壁が特徴的な寺町の中で一番目立
っていて有名な寺です。
(くうよしょうにん)が建立した鮮やかな
深紅の壁が特徴的な寺町の中で一番目立
っていて有名な寺です。
この赤い壁には血生臭い逸話があります。
1589年(天正17)前領主の宇都宮鎮房が黒田氏に
幾度となく反旗を翻したが最後には降伏を受け入れる。
幾度となく反旗を翻したが最後には降伏を受け入れる。
鎮房が中津城内で謀殺された時、家臣団はこの
寺に待機していて黒田勢に奮戦したが全員切り
伏せられました。
寺に待機していて黒田勢に奮戦したが全員切り
伏せられました。
以来、門前の壁は上から何回も白く塗っても
血が染み出すため、ついには赤色に塗り
赤壁寺ともよばれています。
血が染み出すため、ついには赤色に塗り
赤壁寺ともよばれています。
不気味でおどろおどろしく、部屋一面がこんな
感じで赤かったら精神に異常をきたしそうです。
感じで赤かったら精神に異常をきたしそうです。
総括ーーSummary
当初、黒田孝高(如水)は闇無浜から自見・大塚
一帯を含む大規模な築城を計画していましたが
九州平定のための戦が重なり、施工が思うよう
に進みませんでした。
一帯を含む大規模な築城を計画していましたが
九州平定のための戦が重なり、施工が思うよう
に進みませんでした。
1600年(慶長5)関ケ原の功により筑前52万石へ
加増転封しその後に細川忠興が領主として
入部しました。
加増転封しその後に細川忠興が領主として
入部しました。
忠興は居城を福岡県北九州市小倉北区の小倉に
移し、築城を始め、家督を三男の忠利に譲った
後に中津城や城下町を整備しました。
移し、築城を始め、家督を三男の忠利に譲った
後に中津城や城下町を整備しました。
一国一城令が制定されたが、中津城も残すよう
老中に働きかけを行ったところ残置が決定し
三大水城の一つとして現在も堀に海水が流れ
込んでいます。
老中に働きかけを行ったところ残置が決定し
三大水城の一つとして現在も堀に海水が流れ
込んでいます。
(次回)日本新三景の一つ