【岡城跡】in大分2ーー日本の城跡ランキング1位!荒城の月を生んだ難攻不落の天空の城

大分ーーOita
竹田ーー荒城の月のモチーフ Taketa
駐車場はバカ広く、無料です。
前の日に車中泊してスタンバっていました。
 
山の中のため、夜は寒くて丸まっていました。
曇りですが、霧で姿を隠しやすく絶好の城攻め日和です。
 
岡城の入場券は300円、巻物風の案内書が嬉しいです。
ーー口にくわえてニンニンとしたくなります
 
ヨーロッパの城壁のような曲線美な石垣がそびえ立ちます。
山はいいね~、城壁もいいね~
 
石段は急ですが、新しく作られた木造の階段は
そこまで勾配がキツくないため、こちらを
オススメします。
ーー登城で無理すると本丸でバテる可能性
  があります
 
登城口まで続く石垣塀の上に随所に見られる
「カマボコ石」丸く加工されたその目的は
明らかになっていません。
 
◆Pick up◆

岡城跡 別名:豊後竹田城、臥牛城

築造年:1185年(文治元年)
築造主:緒方惟栄
構造:城郭ー梯郭式山城、天守ー複合連結型層塔式(非現存)

◯1936年(昭和11) 国の史跡に指定

◯1990(平成2年)「岡城公園」として
日本さくら名所100選に選定

◯2006年(平成18) 日本百名城に選定

 
牛の臥せたる如きの城の外観ーー臥牛城(がぎゅうじょう)
標高325mの阿曽溶結凝灰岩で形成された断崖
絶壁の台地の上に築かれています。
 
北を稲葉川、南を白滝川、それぞれが天然の濠
の役目を果たし、深い谷に囲まれた堅固なお城です。
 
大手門跡
城の正面に位置する門。籠城の際、敵を正面に
追い詰めるという意味で追手門(おってもん)と
呼ばれていました。
 
1612年(慶長17)岡城に立ち寄った築城の名手
藤堂高虎によって現在のような西向きに替えたと伝えられています。
 
岡城は緒方惟義が源頼朝に命を狙われた源義経
を匿うために築城したことが始まりであるといいます。
 
1586年(天正14)島津義弘率いる軍勢を城主
志賀親次は最後まで死守し島津が落とせな
かった堅城として難攻不落の名声を天下に轟かせました。
 
中川但見屋敷跡
西の丸周辺に存在する三つの家老屋敷の一つ。
大手門から本丸へ向かう桜馬場跡沿いに位置しています。
 
北は九州アルプスのくじゅう連山を望めます。
雑誌などで紹介されている三の丸の高石垣の有名なアングルです。
 
高石垣を上から覗き込みます。見事な積み上げ
方に興味が掻き立てられます。下の崖は
”地獄谷”と呼ばれ、ロープなど仕切りが設置
されていないため、デンジャーです。
 
三の丸跡
他藩の使者や家臣が、藩主と会うための場所
だったと言われています。
殿舎のあった位置には土蔵が建てられ、土壁
の跡が残っています。
 
二の丸跡
北の方角にL字に張り出した地形に建ち、細長い
地形に沿うように書院造が並んでいました。
 
突出したところには数寄屋風に月見櫓、休憩所
になっている東端は風呂屋が造られていました。
 
滝廉太郎像
二の丸の特段眺めに良い場所に建っています。
この岡城から着想を得て、日本で作曲された
初めての西洋音楽の歌曲とされる「荒城の月」を作曲しました。
 
本丸跡
本丸にあった建築物は明治に全て取り壊され
いまや岡城天満神社が建っているだけです。
ーー祭神は学問の神様である菅原道真公
 
ここからかつてあった川沿いに並んでいた武家
屋敷が望めたことでしょう。
 
美の意匠を集めたかのような石垣は必見です。
天守閣は築城当時から設けられていなく、天守
相当にあたる三重櫓が明治までそびえ立っていました。
 
下原御門
中川氏が入城した文禄3年まで大手門ではなく
下原御門が正門でした。城の東側を守っています。
 
大野川を挟んだ岡城の下の国道502号の上り
車線道路では車がその上を通過すると
荒城の月”のメロディが聞こえるようになっ
ており、岡城からもはっきり聞こえます。
ーー最初、おかしな風の音かと耳を疑いました
 
中川民部屋敷跡
西の丸周辺の守りを固めるために6つの櫓場が
設置されていました。

中川民部屋敷は約3,250㎡で屋敷跡は発掘調査
の成果をもとに礎石に建物を表しています。
 
近戸門跡
6箇所の櫓を守るため、城下町に通じる門として
近戸門を設置されました。
 
駐車場まで続く急な坂になっている七曲りを
通って戻るとショートカットになります。
 
西の丸からは阿蘇山と城下町が望めます。
晴天だったら噴煙が立ち昇る様子を眺められる
のですが曇天だったため、うっすらと輪郭がぼやけてます。
 
西の丸の下の郭跡。切り揃えられた石垣の
カーブを重ねた西洋風デザインが良きです。
 
阿蘇溶結凝灰岩は加工に適しているため、石垣
を高く積み上げさらに複雑な曲線を可能にしています。
 
西の丸御殿跡
現在は広い平野になっています。家督相続後の
隠居住まいとしていましたが、火災により焼失
してから西の丸は居住性を取り入れた政治的な
役割を果たしていました。
 
お城の顔である天守ですが、初期の山城や平城
などほとんどの城には天守は設けられていません。
 
中途半端にコンクリート製で摸擬天守を再建す
るより、ないものはないとして建築やアートと
して当時の雰囲気を楽しむことが魅力だと私は考えます。
 
住所:大分県竹田市大字竹田2889
TELL:0974-63-4818(まちづくり文化財課)
営業時間:9時00分~17時00分
定休日:12月31日~1月3日
入場料:高校生以上¥300 小中学生¥150

関連サイトhttps://okajou.jp/

武家屋敷通り(歴史の道)ーーStreet

岡城跡駐車場に車を置いて徒歩で車一台分程の
幅のトンネルを抜けて城下町に向かいます。
 
トンネルを抜けた先には「広瀬神社」がありま
す。”坂の上の雲”にも描かれ、軍神として
神格化された”広瀬武夫”中佐を祭る神社。

竹田出身であり日露戦争の折、旅順港閉塞作戦で戦死しました。

 
家老屋敷が並ぶ殿町。武家屋敷通りは江戸情緒
の町並みが保たれています。
 
過度な観光地アピールをしていないため、落ち
着いて散策できます。竹田の石工技術を生かし
た土塀や石垣が特徴的です。
 
江戸時代、キリスト禁教期に藩ぐるみでキリシ
タン隠しを行ってきたのではないかと云われる
城下町。
ーー「隠しキリシタン城下町」として町おこし
  を行っています
 
竹田は日本の八大布教地のひとつとして知られ
ています。1600年頃、豊後国岡藩の初代藩主
中川秀成藩主に布教を認められてからは渡来
してきた宣教師たちの活動拠点になっていました。
 
あまり知られていませんが、竹田での布教は
多くの信者を獲得した長崎より15年ほど早か
ったことがわかっています。
 
凝灰岩で作られた県指定史跡のこの洞窟は
14世紀頃のローマの洞窟礼拝堂を彷彿とさせます。
 
幅3m、奥行3m、高さ3.5m。手掘りで掘られた
内部にはマリア像が祀られ祭壇として使用され
ていました。
外国人宣教師が匿われたとされますがキリシタ
ンにまつわる文献はほとんど残っていないため
謎が謎をよんでいます。
 
住所:大分県竹田市殿町
TELL:0974-63-4807(竹田市商工観光課)
営業時間:24時間営業
定休日:なし
入場料:無料

関連サイト:ー

総括ーーSummary

旅行サイト「トリップアドバイザー」が発表する
旅好きが選ぶ!日本の城ランキング 2018
で5位にランクイン。城跡部門では1位に輝いています。
 
「天空の城」といったら”日本のマチュピチュ”と
呼ばれる竹田城(兵庫県朝来市)が有名ですが
堅城鉄壁さでは岡城も負けていません。
天空の城と呼ばれる幻想的な城は全国各地に
存在しているため全部鑑賞しに行きたいです。
 
高石垣は、防御的機能はもちろんのこと空間を
広げる役割も果たしていました。岡城は巨大な
岩石の台地にあるため面積が限られています。
そのため、面積を拡張させるために施された
石垣が整然と積み上げられている姿を間近で
見られるところが最大の見所です。
 
(次回)ーー火山からの恵み。それは温泉♨
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