広島平和記念公園
現在平和記念公園になっている場所は市内有数の
繁華街でした。
かつて中島本町・天神町・材木町・木挽町・本柳町
・中島新町・猿楽町細工町の8つの町から成っていました。
被爆前の町には1720世帯、5949人がいたと推定さ
れています。戦後、この地区を世界中の恒久的平和
の願いを込めて1949年(昭和24)平和記念公園と
して整備されました。
公園内には多数の平和を表すモニュメントが設置されています。
広島(中区)ーーヒロシマから世界へ Hiroshima
原爆ドームーーMemorial
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00580.jpg)
◆Pick up◆
原爆ドーム
竣工:1915年(大正4年)
設計:ヤン・レッツェル(チェコの建築家)
◯1996年世界遺産(文化遺産)に登録ーー負の世界遺産と呼ばれる
◯保存に関して「可能な限り、破壊された当時の状況を保つ」必要性を持つ
◯鉄骨による補強とコンクリートの劣化補修など形状維持・保全
が第一であり他の世界遺産に施されるような修復や保全とは一線を画する
昭和20年8月6日、史上はじめての原子爆弾によって
破壊された”旧広島県産業奨励館”の残骸です。
ネオバロック建築でゼツェッシオン風の装飾が施さ
れた建物でした。
ーー元々の用途は広島の物産を展示していた建物
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00588-cb53d.jpg)
爆弾はこの建物のほぼ真上約600m空中で爆発しま
した。爆撃機B-29から落とされたただ一つの爆弾
(リトルボーイ)によって大勢の人々の命が失われ
半径2㎞に及ぶ市街地が廃墟と化しました。
この事実を後世に伝えるため、奇跡的に全壊を免れ
たこの建物を平和の象徴として国内外の人々の寄付
によって補強工事を行い保存されています。
Column
なぜドーム本体が全壊しなかった?
1.爆風の衝撃を受けた方向がほぼ真上だった
2.建物の窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜けた
3.ドーム部分だけは建物部分と異なり、屋根の構成材が鋼板であった
以上、3つの偶然の要因が重なって”被爆建造物”
として残りました。
実際に間近で見るとーー
涙が出てきそうになります。もう建築物としては
終わっているのに1年でも先に残そうと修繕や
保全工事が行われていてそこに建っているだけで
存在感を放っています。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00593-ff0b2.jpg)
広島の復興はここから始まりました。一面、焼け野
原にバロック様式のドーム状の鉄枠の廃墟がよく
目立ち、サンフランシスコ講和条約が締結される
1951年(昭和26年)頃には、市民から「原爆ドーム」
と呼ばれるようになっていました。
原爆ドームを見るたびに「あの頃の記憶が蘇る。
取り壊してほしい」という意見と「復興のシンボル
として保存するべき」という意見があり次第に取り
壊す意見が強まっていきました。
被爆時1歳、それから15年後に白血病によりこの世
を去った”楮山ヒロ子”の書き遺した日記が議論の
流れを変えました。
ーーそれにより永久保存することが決定しました
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00600.jpg)
ー動員学徒慰霊塔ー
原爆ドームから川沿いに歩いた先にあります。
平和の女神像と平和の象徴であるハトが平和への思
いを伝える末広がりの12mの高さの搭です。
第二次世界大戦の際の労働力不足により中学生以上
が駆り出されました。この塔は遺族によって原爆の
犠牲者含める1万人余りの学徒の霊を慰める目的で
建立されましたーー
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00601.jpg)
川べりにある白い屋根のイタリアンレストラン。
オープンテラスに座っている客の多くが外国人な
ことも相まって欧風の雰囲気です。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00609.jpg)
ー原爆の子の像ー
巨大な折り鶴を持った少女の像。
被爆により幼くして亡くなった”佐々木貞子”さんや
子供たちを偲んで全国から集められた募金によって
「原爆の子の像」が作成されました。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00611-1c048.jpg)
碑文「これはぼくらの叫びです これは私たちの
祈りです 世界に平和をきずくための」
ーー胸に刺さる言葉です
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00612.jpg)
千話鶴どころではありません。年間で1千万羽にも
のぼります。
鶴が集まって文字になっていたり、絵になっていま
す。鶴を千羽折ったら願いが叶うという言い伝えを
信じて闘病生活中に元気になれるよう一生懸命折り続けました。
これが”折り鶴”と”平和”が紐づけされた要因です。
これがーー世界中で平和を願って折られている理由
です。平和を祈る気持ちが全世界共通認識になって
これから先も平和が続くことを期待します。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00619.jpg)
ー原爆死没者慰霊碑ー
原爆の被害者を悼むモニュメントーー
28万人超の原爆死没者の名前が刻まれています。
慰霊碑のアーチからは原爆ドームを望め、設計者の
思想が反映されています。
毎年8月6日、原爆による死没者の御霊を慰め、世界
の平和を祈る”平和記念式典”が行われる場所です。
よく総理大臣が献花していたり、テレビで報道され
る場所です。
ーー2016年5月27日にオバマ元大統領が訪問して
話題になりました
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00616-250dc.jpg)
桃山時代の御陵を模した形で円形の直径16m、高さ
3.5m。石造りの相輪が飾られています。
氏名不詳や一家全滅などで引き取り手のない遺骨を
供養するために建設されました。
名前が判明しているにも関わらず今なお814体の
氏名・年齢・性別がほとんどわからない遺骨が
荼毘に付され足元に眠っています。
碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
広島平和記念資料館ーーPeace
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00622-bc15b.jpg)
忘れないーー忘れられない、1945年8月6日8時15分
かろうじて生き残った人も、心と体に大きな傷を
失われ受け、多くの被災者が今なおあの日から抜け
出せずに苦しんでいます。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/P4056895.jpg)
広島平和記念資料館は被爆者の遺品や被爆の惨状を
示す写真や資料を収集展示するとともに広島の
被爆前後の人々の暮らしの歩みや原爆投下後の状況
について紹介しています。
1階から入館してエスカレーターで3階へ上がりま
す。訪れる観光客はアジア圏の人よりも欧米人が
多い印象を受けます。
広島平和記念資料館には本館と東館がありますが
東館は改装中のため入ることができませんでした。
原爆投下前
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00627.jpg)
⇩
原爆投下後
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00625-9014a.jpg)
ー3F常設展示ー
館内では写真撮影可能ですがその場の雰囲気だけは
どうしても伝えることができません。しかし、少し
でも空気感を紹介することで訪れる人が増えたらいいですねーー
広島市内へ原爆投下から復興までの流れが今流行り
のプロジェクションマッピングとなって最新の技術
を使った展示があります。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00633.jpg)
被爆者による証言を聞くことのできるビデオコーナー。
ここは凍り付いたような表情で画面から目を離せな
い人がたくさんいました。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00635.jpg)
核兵器の開発から投下までの経緯。
熱線、爆風、放射能による原爆の脅威を伝えます。
みなさん時間をかけて真剣にパネルを読んでいます。
ーー原爆投下先の候補は広島・長崎他、東日本では
新潟が挙がっていました
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00644-8bb76.jpg)
熱風でドロドロになった瓦のビフォーアフター
です。爆心地から600m離れた場所でも
摂氏2000度もあり、この範囲内にあった瓦は
表面が溶けて泡状のツブツブが発生するという
特異な現象が見られました。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00645.jpg)
被爆から年月が経った現在でも安心できない日々を
過ごしている人がたくさんいます。白血病やがん
などの潜伏期間の長い後障害、特に胎内被爆
遺伝的影響は今後も継続した調査が必要です。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00650.jpg)
原爆投下後のきのこ雲。世界的に有名な写真。
爆発後に発生したチリやススなどが暖められた空気
とともに上空に吹き上げられ、空気中に水分と
混ざり放射能を含む雨粒となって地上に降り注ぎ
ました。
ーーこれが「黒い雨」と呼ばれています
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00647-01904.jpg)
地図上から人は見ることはできません。
核兵器の恐怖や非人道性を訴え、核兵器廃絶を世界
に呼びかけノーモア・ヒロシマを訴えています。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00652.jpg)
ー2F常設展示ー
広島が原爆の被害から復興した広島の歩み。
メディアを通して廃墟同然になった広島市や市民が
路面電車の線路を力を合わせて復旧していたり
海外からの支援により肉親を失った子どもたちの
養子縁組を結んでいたり市民の平和への取り組みを伝えています。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00706-62197.jpg)
ー1F企画展示室ー
現在閉館中の本館で展示していた資料や収蔵庫で
保管していた資料、近年寄贈された遺品などが
展示されています。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00657-5ccf6.jpg)
亡くなった3人の遺品を組合わせています。
頑丈である学生服がここまで焼け焦げ、ボロボロに
なるなんて着ていた人の損傷は想像に難くありません。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00658.jpg)
何気ない一日の始まり、お気に入りの三輪車を
転がして外で遊んでいた当時3歳の伸ちゃん。
熱線に焼かれ、その日の夜に息を引き取りました。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00662-e01cc.jpg)
時刻が丁度8時15分を指したまま沈黙した腕時計。
展示物に引き込まれてしまいそうになります。
サイコメトリーとは違いますが、触れたら記憶が
脳に流れ込んできそうで直視することが難しいです。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00732.jpg)
ーB1F特別展示室ー
新着資料などを展示しています。
2016年~2017年の間に638点の遺品や資料、被爆
の様子を描いた絵や写真が寄贈されました。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00713-5938a.jpg)
B1Fのホワイエに大統領で歴史上初めて広島を訪れ
たオバマ元大統領の直筆のメッセージと折り鶴。
丁寧に折られており、人柄が表されているかのようです。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00738.jpg)
1Fのエントランスに地球平和監視時計が設置されて
います。
1段目は「広島への原爆投下からの日数」2段目に
「最後の核実験からの日数」が表示されています。
ーー北朝鮮が核実験を行ったことで数字がリセット
されました
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00707.jpg)
ミュージアムショップは在庫切れになることも
しばしば。
売り上げは広島原爆被爆者援護事業団に寄付される
のでたくさん買って行ってください。
今回の戦利品ーーSENRIHIN
Booty
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00801.jpg)
私は折り鶴ピンズを買いました。尖った所が刺さる
と痛いですが平和の象徴であり、カラーも豊富でイチオシです!
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00748-1.jpg)
◆Pick up◆
広島平和記念資料館(広島ピースセンター)
竣工:1955年(大正4年)
設計:丹下健三
構造:RC造
◯国指定重要文化財、国指定名勝
◯1998年ーー公共建築100選
1999年ーー日本の近代建築20選
◯2006年ーー戦後の建築物として初めて”重要文化財”に指定
設計者ーー丹下健三(たんげけんぞう)
広島とかかわりの深い人物で、広島高等学校に進学
し、国立西洋美術館で有名な巨匠ル・コルビジェ
の雑誌に感銘し建築家を志します。
高校時代を過ごした広島に建築家として凱旋し
ます。平和記念公園のコンペが開催され、見事1等
になりました。
丹下健三の設計では他の誰も案に取り入れなかった
場所を重要な位置づけにしました。
それがーー原爆ドーム
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/DSC00747-3f9d6.jpg)
それまで原爆ドームは「あの頃の記憶が蘇る。取り
壊してほしい」と保存されるかどうかもわからない
状態でしたが、丹下案によってシンボルとして
決定的なものになりました。
原爆ドームを平和記念公園の一部として考え、慰霊
碑の先のドームを一望できるという設計になっています。
ピロティの太い柱。水平に建つ建物に垂直の繊細な
ルーバーがとても美しく廃墟の中から力強く立ち
上がる人間を非常によく表しています。
改装中にて遠くからしか撮影できなかったこと
はとても残念です。
ちなみに”死ぬまでに見ておくべき100の建築”にも
載っています。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/E5BA83E5B3B6E5B9B3E5928CE585ACE59C92.jpg)
地図は平和記念資料館から原爆ドームまでの範囲
です。原爆ドームから平和記念資料館まで一直線
に線を引きます。
直線上に祈る場の慰霊碑、広場、資料館、平和の門
が全て収まっていることがわかります。
ーーこれは神社における伽藍配置の空間構想に酷似
しています。
総括ーーSummary
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2018/12/KIMG2119.jpg)
皮膚が焼けただれている人形があったり、火傷の
生々しい展示があって広島平和記念館を敬遠して
いるなら今すぐに考えを改めましょう。
当時を経験した人はもっと酷かった、悲惨だったと
口々に言います。
被爆再現人形はリニューアルに伴い撤去されてしま
いました。「被爆再現人形を残してほしい」という
意見が多い中、原爆の被害が軽視されてしまうと
いった理由から撤去が決まりました。
しかし、被爆再現人形を見ることでインパクトを
受けた人も少なからずいるはずです。遺品や絵
手紙などの資料ももちろん大事ですが、そのとき
印象に残ったとしても数か月、数日で忘れてしまう
と思います。
展示の目玉ではないですけど、誰もが見て永久に
心に残る強烈なものを期待します。
資料の一つ一つから当時の空気感、悲しみや苦しみ
を私たちに訴えかけられているかのようです。
広島が望むことはただ一つ、あのような惨劇を
もう二度と繰り返さない繰り返させないーー
核兵器のない平和な社会を実現することです。
ノーモア・ヒロシマ
(次回)ーー平和史跡めぐり、戦争の爪痕は深く