鳥取ーー日本最古のロマンチックな恋物語 Tottori
目次ーーIndex
仁風閣ーーArchitecture
鳥取の観光にあたりピックアップした中で必ず訪れ
たいと思った場所の一つです。
鳥取城跡の敷地内に建てられた洋風建築で明治時代
を知るうえで抑えておきたい観光地
ーー観覧料¥150と格安で室内の部屋をあますこと
なく見学できます。
◆Pick up◆
仁風閣(じんぷうかく)
建設年:明治40年(1907年)
建築様式:フレンチルネッサンス様式を基調とした木造二階建の洋風建築
規模:延べ面積1,046㎡(317坪)
敷地7,200㎡(2182坪)
設計:片山東熊 代表作ーー赤坂離宮を設計
重要文化財
明治40年5月、時の皇太子(大正天皇)の山陰行啓
に際し、鳥取藩主池田仲伯爵により宿舎として
建てられた中国地方屈指の明治建築
白亜に塗装された建物の外観がとても美しく、古さ
を感じさせません。
櫛型ペディメント(破風)をモチーフにした
ファサード(建築物の正面)が特徴で日本赤十字社
奈良博物館などと同じです。
左右対称の建物は得てして重厚で単調なデザインに
なりやすいが、仁風閣は小さな屋根窓や三角破風が
バランスを整え、軒裏の飾りから陰影が生まれ
軽快な印象を受けます。
屋上の棟飾りや階段室の八角尖頭屋根が建物に変化
を与え、非常に見応えある建築物です。
背面に回り込みます。ベランダの自由な開放感を感
じさせ室内に明るい光を届けてくれます。
中央部の三角破風が背面の外観のバランスを引き立てます。
「るろうに剣心」のロケ地にもなった仁風閣は
”武田観柳の屋敷”として使用されました。
映画では斬り合いの場になったり、ガトリングを
ぶっ放したりとめちゃくちゃになりましたね…
この中庭で剣心と左之助が暴れたシーンが印象に残ってます。
ー洋風庭園ー
ー和風庭園ー
2つのタイプが違う庭園があり、正面を望む洋風庭園
は明治神宮外苑などの設計者でもある折下吉延
(おりしたよしのぶ)により大正12年(1923年)頃以降
に整備されました。
仁風閣正面から左手には鳥取城跡の石垣が見えます。
仁風閣の背面には文久3年(1863年)に造営された
和風庭園の宝隆院庭園が望めます。
建物の中に入らなくても満足できますが、仁風閣の
歴史を詳しく知りたいのなら見学を推奨します。
最初、鳥取の池田邸として計画していたが行啓の
御座所として市に貸与を決めました。
建設工事は突貫工事でわずか8か月で無事皇太子を
迎えることができました。
総経費は43,335円ーー当時の鳥取市の年間予算は
50,000円程なのでいかに莫大な予算が投じられたかわかります。
眺めるだけではなく建物の中に入ります。1階は主に
展示室になっており順路通りに見学すると歴史が
よく理解できます。
鳥取池田家の歴史がパネル形式で紹介され、ゆかり
の品々なども展示しています。
特に螺旋階段は素晴らしいの一言です。
全国的にも極めて稀な支柱を設けていない構造で
ささらげた(階段を支えるわき板)が支柱の代わり
を担っています。
ささらげたは削ったケヤキの厚板を6枚つないで
出来ています。
階段なので2階に上ってみたかったのですが、貴重な
文化品のため使用禁止となっています。
組み合わせた板の滑らかな美しいラインがセクシー!
ーー長い時間見上げすぎて首がいたくなりました(笑)
もう一つの階段から2階に向かいます。
正面の額にある直筆の「仁風閣」の名は行啓
に随行した海軍大将「東郷平八郎」によって
命名されたものです。
ー御座所ー
ー謁見所ー
2階は御座所・謁見所・御食堂の主要室の室内装飾が
素晴らしく、室内マントルピース(暖炉飾り)のため
の6本の煉瓦煙突・カーテンボックス・シャンデリア
などの細部意匠にも目を見張るべきポイントが多い
洋風のアンティークデザインです。
2階のバルコニーは壁も床も白一色で統一され何とも
おしゃれな雰囲気です。
るろ剣のロケ地と宝隆院庭園が一望でき、建物内の
白と景観の緑のコントラストにより気品溢れる空間
になっています。
寄り道ーーYORIMICHI
A little detour
「ふるさと」というと何を思い浮かべますかーー
多くの人は自分の故郷ーー生まれた場所が浮かんで
くると思います。
卒業式など一度は歌ったであろう「ふるさと」名曲
の音楽家は鳥取市出身の岡野貞一。
他の代表曲「おぼろ月夜」「春の小川」「もみじ」
「春が来た」など現代でも不屈の名曲を数多く世に
生み出してきました。
鳥取城ーーCastle
仁風閣と鳥取県立博物館に挟まれるかたちで鳥取城
跡に続く城門から入城します。
石段で一段一段の蹴上が高く道のりは険しいですが
仁風閣をはじめとする地平線まで延びる鳥取市の
展望は他のお城とも遜色ありません。
しかし、戦国時代にこの地で最も悲惨で最も残酷な
地獄の光景が広がっていました。
それは大河ドラマでは絶対放送できないような内容
なので知る人は少ないと思います。城攻めには
水攻め、火攻め、奇襲、夜襲など戦術が多くあり
ますがーーその中でも地味ながら群を抜いて
”兵糧攻め”の過酷さは目を背けたくなります。
なんとなくわかるーー鳥取の渇え殺し(とっとりのかつえごろし)
天正9年(1581年)織田の家臣、羽柴秀吉が城主
吉川経家(つねいえ)、他数千人が籠城した
鳥取城攻めの別称
ーーまた秀吉かよ~と言われるかもしれません
が歴史を語るうえで外せない人物なんです
西の大国、毛利氏と天下統一を目前にした織田
方の戦を展開している中で飛ぶ鳥を落とす勢い
の秀吉が次々と城を落城し鳥取城まで攻めあがった。
⇩
鳥取城は山の上に位置しているため攻めあぐね
ていた。そこで黒田官兵衛が兵糧攻めを提案。
3か月の籠城の後、降伏する。
第一次鳥取城攻め
ーー官兵衛は戦の際には最小限の犠牲で終わら
せるという考えがあった
⇩
同年に今度は毛利が攻めてきたためこれを降伏。このときに吉川経家を城主に据える。
再度、兵糧攻めを仕掛けた。兵糧を高騰で買い
占め、村人を城へ追いやる。
第二次鳥取城攻め
吉川経家は鳥取城に入城する際に果てる覚悟を
決め、首桶を持参したという。
人口1,400人→4,000人
⇩
城内は飢えに苦しみ、虫やカエル、雑草を食べ
て飢えを凌ごうとした。それが4か月経つと
餓死者が続出し、城主経家は自らの自決と引き
換えに城に籠る者の助命を嘆願し開城。
ーー餓鬼のごとく形相をした男女が助けてと
叫び、もだえ悲しみ、人肉を貪る者まで
現れたという
秀吉軍は開城後に米を配給するが、我先にと
貪り飢餓状態から急に栄養補給してしまった
ためせっかく生き永らえた命の半数近くが落とした。
「三木の干し殺し」と並んで日本史上最も過酷な
籠城戦です。
特に「鳥取の渇え殺し」は人肉食ーーつまり
「カニバリズム」の記録が残っていて当時の
惨状を物語っています。
ー二の丸跡ー
江戸時代の前期には藩主が暮らし、家老が政治を
行う御殿がありました。
二の丸は鳥取城を象徴する場所として市民に親し
まれていて昭和32年(1957)に国の史跡に指定されました。
三階櫓跡から鳥取市の町並みを望みます。
明治12年に解体されるまで一階八間四方、二階六間
四方、三階四間四方の櫓台が建てられていて鳥取城
を象徴していました。
多くの人間が命を落とした心霊スポットとしても
有名で若者の度胸試しなど興味本位で訪れる人が
後を絶ちません。
秀吉を恨んで4,000人が飢えたこの地で恨みつらみ
の呪言を唱えながら息絶えました。夜に来ると
心霊現象に遭いそうで怖いですね。残留思念という
か思ひが残っていそうで…
鳥取城を心霊スポットとして紹介したTV局が鳥取県
知事に謝罪したらしいですがーー
このときの知事の申し入れ文がさらっとPRすると
いうさすがとしか言いようがない対応です。
「鳥取には地縛霊も砂漠霊もいないが、幽霊族の
末裔の鬼太郎は堺港にいる」
そんなこと言われたら鬼太郎に会いに行くのが俄然
楽しみになってきます♪
ー三の丸庭園跡ー
鳥居を通り石段を登った先に三の丸があります。
その背後の庭園は山の傾斜を利用した城郭内の
庭園で鳥取城の他には金沢城、和歌山城、松山城
など数えるほどにしか現存しないため貴重な庭園跡です。
ー天球丸の巻石垣ー
関ケ原の戦いの後、城主になった池田長吉の
姉・天球院が居館に住んだことから天球丸と
名づけられました。
1807年、天球丸周辺は石垣の緩みやはらみが大きく
なり、補強石垣や盛土によって補強・保全するため
に亀の甲羅のような石垣が築かれました。
角を持たない球型のため「巻石垣(まきいしがき)」
とも言われ、こうした石垣は鳥取城以外には発見
されていないため絵図などをもとに復元されました。
ーーおできみたいで異質なかんじがしますね
鳥取城の天守閣跡にはここよりさらに険しく長い
山道を約40分間登山しないと辿り着きません。
サンダルでは危険でさらにちゃんとした備えもして
ないし、前日の大雨により山頂までの参道が通行
禁止だったためここで打ち止めです。
城のメインルートである大手登城路跡では復元工事
が2006年から始まっており、30年間にわたる
工事計画を進めています。
擬宝珠橋(ぎぼしばし)を始めとする中ノ御門と太鼓御
門という2つの重要な門の復元を完了し、鳥取市の
新たな観光地としての活用を目指しています。
現在も発掘調査が続いているのでまだまだ新発見
が見つかるかもしれません。
総括ーーSummary
土の城ーー鳥取城は久松山に立地し、周囲が急峡な
斜面で覆われ、自然地形を利用した防御性は
鳥取城主吉川経家から「日本二かくれなき名山」
と評されるほどです。
近代の城郭のように石垣を築かず、まさに城の字の
ごとく”土から成る”山頂には険しい山道を登らない
といけませんが戦国時代から変わらない山城の姿が
拝めます。秀吉軍が包囲した鳥取城の攻めの難しさ
を感じることができるのではないでしょうかーー
吉川経家は毛利の重臣で武勇に優れ、信頼を置かれ
ていたため鳥取城の防衛という重大で切ない役目を
与えられました。
秀吉は経家の能力を買っていたため、籠城の原因に
なった山名豊国の家臣の切腹だけで許すと言うが
経家は断固として受け入れません。首は安土城の
織田信長に届けられ丁重に葬られました。
自刃するにあたり経家は数枚の遺書をしたためま
した。子供宛ての手紙には読みやすいように
平仮名を使っていて現在遺書は5通の内3通が発見
されています。
ちなみに五代目三遊亭圓楽(吉河 寛海)のご先祖様
だそうですーー
(次回)ーー日本三大砂丘で最も有名な砂場で遊んで
みた!