【原城跡】in長崎15ーー日本の歴史に刻まれた史上最大規模の一揆。キリシタンに隠された歴史の真実

長崎ーーNagasaki
南島原ーー島原の乱終焉の地 Minami simabara

原城跡ーーHeritage

歴史の教科書ではさらっと言葉だけ習ってテストに
必ずと言ってもいいほど出題される”島原・天草の乱”
ーーあれ、島原だっけ。天草だっけ、一揆だっけ
  と悩むこと請け合いです(笑)
 

Column

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
キリスト教宣教地の日本列島の東端にあたる
長崎と天草地方は最も集中的に宣教が行われた

◆禁教令の中で長崎と天草地方において一般
社会と共生しながら信仰を続けた証明と
なる遺産群のことーー

◆潜伏キリシタンの伝統の始まりからその形成
維持、拡大の軌跡、終焉を迎えるまでの歴史
を語る上で必要不可欠な12の構成資産からなる。

原城跡へはこの道を真っ直ぐに進めば辿り着きます。
駐車場は本丸近くに駐車場があったのですが、私は
知らずに1km離れたバス停近くの無料駐車場に
置いて歩いて行きました。
 
なんとなくわかるーー島原・天草の乱(1/3)

天草一揆、島原の乱などとも呼ばれる幕末前
の最後の内戦。1637年(寛永14)10月25日
~1638年(寛永15)2月28日終結
 
江戸初期に起こった九州の島原半島南部と天草
諸島のキリシタン農民が主体となり、”キリシ
タン信仰の自由””荷重な租税からの解放”を
掲げて江戸幕府に抗戦した一揆。
         
【10月25日】
島原藩領主松倉重政による年貢の過重な取り立
て、厳しいキリシタン弾圧に対し、旧有馬氏の
家臣が中心になって反乱を画策し、有馬村の
代官林兵左衛門を殺害する。
ーーこの事件が引き金となり、幕府を巻き込む
  大規模な一揆へと発展していく
         ⇩
【11月14日】
島原一揆勢は村々から強制的に勢力を集め
島原城に迫る。
これに呼応して、唐津藩主寺沢堅高による悪政
に苦しむ民衆により一揆が起こる。天草一揆と
呼ばれ、天草下島の北西にある富岡城へと進軍する。
ーー天草領主寺沢広高は石高を42,000石と報告
  したが実際はその半分程度しかなかった
しかし、島原城も富岡城も落城にまでは至らず
幕府軍の反撃に備え、原城に籠城する島原一揆
勢と合流するため島原湾を渡った。
         ⇩
天草四郎率いる天草一揆勢も原城に入城し、城
の防備を固める。
ーー国内に潜伏するキリシタン蜂起させる狙い
  とポルトガルの援軍を期待していたと考察
  される
 
原城三の丸
島原の乱後には幕府軍により、破却され残存する
石垣の名残がわずかに残っているだけです。
 
原城の表玄関である大手門跡ですが、本丸らしき
ものは見当たりません。
 
島原の乱では3千500余名が守護していましたが
幕府軍の総攻撃により、細川軍がこの場所を破りました。
 
原城二の丸
だだっ広い広場にしか見えませんが、三の丸、二の
丸は自然の地形を生かした防御機能を備えていました。
 
島原の乱時には壮絶な戦が行われた戦場となった
この空濠は島原の乱の時に本丸を陸の孤島にする
ために築かれたものです。
 
籠城の際は竹や木で柱をたてカヤでその上を覆い
非戦闘員を収容していました。
 
なんとなくわかるーー島原・天草の乱(2/3)

         
【12月10日】
幕府から1万5千石の小大名重臣板倉重昌が
派遣。原城で3万7千にもなった天草・島原
一揆勢鎮圧を目的とする。
 
【1月1日】功を焦った重昌は強引な総攻撃を
開始。
ーー板倉重昌は戦死、幕府軍の死傷者約4000人
  対する一揆軍90余人と一揆軍の圧勝
         ⇩
幕府側は”知恵伊豆”の異名を持つ老中・松平
信綱を着陣させる。
さらに黒田、鍋島、細川といった九州諸大名
にも出陣を命じ、12万以上の軍勢に膨らんだ。
 
兵糧攻めを選択し、陸と海から完全包囲し
原城を無血開城に導く。
ーー断崖絶壁を下りて海藻を兵糧の足しにして
  いた
ーー甲賀忍者を潜入させ、兵糧が少ないことを
  諜報させた
         ⇩
3ヶ月にも及ぶ籠城で、一揆勢3万7千の食糧は
底をつく。キリシタンではないもの、強制的に
一揆に参加させられたものは城を出れば助命
すると投降を促したがそれを拒否。
ーー実際は投降するもの、脱走するものが少な
  からずいた
ーー幕府軍への投降者の数は、1万人以上と
  推測されるが記録なし
         ⇩
【2月27日午後】幕府軍総攻撃開始。
兵糧攻めにより城内の食料、弾薬は尽きかけて
おり、戦意も結束も失われていたため、28日
正午頃、原城落城。
総大将天草四郎は討ち取られ、一揆軍は非戦闘
員(推定13,000人以上)を含み、皆殺しにされ
乱は鎮圧された。
         
幕府軍の総攻撃とその後の処刑によって生き残
ったのは内通者であった絵師の山田右衛門作
ただ一人であったと言われる。
ーー一揆勢に妻子を人質に取られ、副将として
  本丸を守備していた
 
約4か月に及ぶ島原・天草一揆はここに終結
する
 
◆Pick up◆

原城跡 別名:日暮城

築城年1496年(明応5)
築城主:有馬貴純
構造:城郭ー梯郭式平山城(海城)、天守ー不明
規模:周囲約4㎞

◯本丸、二の丸、三の丸、天草丸、鳩山出丸
 から構成

◯海岸に突き出た丘に築かれ、東は有明海
 西と北は低湿地に囲まれた天然の要害

◯1616年(元和2)一国一城令により廃城

◯1938年(昭和13)5月30日、国指定史跡に登録

 
一揆の終結より130年ほど後、原城跡に野ざらし
となっていた遺骨を一揆軍、幕府軍問わず拾い集め
供養したホネカミ地蔵。
 
ホネカミとは”骨をかみしめる”の意味で自分自身の
ものにする、人々を救済と理解するべきだと言われ
ています。
 
一揆後に石垣が壊され、築石が落とされた当時の
状況がそのまま展示されています。
 
江戸時代、廃城となったお城では一部が破壊される
ことがありますが、原城は徹底的に石垣が取り壊されています。
 
さらに一揆勢のものとみられる人骨も多く発見され
たことから戦いの壮絶さが見てとれます。
 
池尻口門跡
原城本丸に入る3つの門のひとつ。
発掘調査で門の礎石や石垣、階段が発見されています。
 
埋門跡
本丸に入って中心に位置する門跡。
一揆後、幕府軍によって壊され、埋められていまし
たが、発掘調査によって本来の石垣や階段、水路跡
が確認されました。
 
天草四郎時貞の墓碑
なんとなくわかるーー天草四郎時貞

救世主と呼ばれた絶世の美少年。
ありあまるカリスマと語り継がれる伝説の数々
が今も変わらない人気の秘密!?
1845年(安政元年)小西行長の家臣、益田甚兵衛
好次の長男として生まれる。
         ⇩
本名:益田四郎時貞 諱(いみな)ーー時貞
洗礼名:ジェロニモ、フランシスコ
ーー神童と呼ばれ教養高く恵まれた幼少時代を
  過ごす一方、領主の悪政、キリシタン弾圧
  により、領民は生活が圧迫         
         ⇩
数々の奇跡を目の前で披露。さらに生来のカリ
スマ性に惹かれ領民たちが周囲に集まる。
 
(その一例として)
・盲目の少女に触れると視力が回復
・海面を歩いた
このような逸話は、イエス・キリストが起こ
した奇跡として新約聖書に多数書かれており
四郎の名声を高める目的で創作されたとも
云われる。
         ⇩
1637年(寛永14)若干16歳で島原の乱に際し
一揆軍の総大将を務める。
四郎を救世主として崇め、象徴的存在として
数万もの人々を結束させる。
ーー追放された宣教師・マルコス・フェラロ
  が残した書に”今から26年後、救世主の出
  現を予言”したかのようなことが記されて
  おり、その救世主が四郎であると民衆の間
  に広まった
         ⇩
幕府が大軍を派遣することを知った一揆軍は
廃城であった原城に籠城。この時点で浪人
農民含め37,000人にまで膨れあがり、武器
弾薬や食料も豊富にあった。
ーー四郎本人はまだ10代半ばの少年であり
  カリスマ的な人気を浪人や庄屋たちに利用
  されていたに過ぎないと見られている
         ⇩
3回に渡る幕府軍の攻撃を跳ね除け、奮戦するが
兵糧攻めに方針を転換。90日間原城にて籠城し
たが幕府軍の総攻撃により終結。
ーー「いま籠城している者は、来世まで友に
  なる」その四郎の言葉を信じ、最後まで
  抵抗を続けた
 
四郎も討ち取られ、その首は長崎の出島のポル
トガル商館前でさらし首にされる。享年17歳
ーー姿を誰も知らないため、派手な服装の少年
  の首をさらした説
ーー四郎の母親が、一揆軍の死者の首の一つに
  目を止め涙した様子から、四郎の死を確認
  できたという説
 
四郎の馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪である
ことから豊臣秀頼が大阪から逃げ延び、天草
四郎となった伝説もあるが信憑性は低い。
ーー豊臣家の権威の利用を図ったとも考えられ
  ている
 
本丸門跡
原城本丸へ続く最後の門。
総攻撃時には細川軍がここを突破しました。
建物の基礎となる礎石が並んでいることから櫓門
が建てられていたと考えられています。
 
他の門跡同様に一揆後に破壊され礎石の一部が
わずかに残っているだけです。
 
原城本丸
本丸は石垣に囲まれ、出入口は桝形を採用しており
高い石垣、建物に瓦を使用建物を礎石上に備える
近世城郭の特徴を持っていました。
 
1992年(平成4)から始まった発掘調査によって
本丸地区から多くの遺構・遺物が出土しました。
 
その中でも礼拝堂が建てられた記録が残っていま
す。北側では十字架、メダイ、ロザリオなどキリ
シタン関係遺物が発見されました。
 
櫓台跡(天守台跡)
発掘調査によって大きく張り出した石垣の跡
が発見されました。
 
宣教師が残した報告書によると築城時にはこの場所
に3層の櫓が建てられていたことが記されており
天守相当の建物があったと推定されています。
 
見晴らしが良く幕府軍の動きをいち早く察知でき
そうです。まあ、四方を大軍で取り囲まれたら
為す術もありませんが…
 
松平信綱は日本との貿易を独占し、ポルトガルを
排除しようとするオランダと結びつき、海上から
砲撃を行いました。
ーーポルトガルからの援軍を期待している一揆軍
  の戦意を失わせるという思惑
 
DSC03154.JPG
なんとなくわかるーー島原・天草の乱(3/3)

         
島原藩主の松倉勝家は改易処分となり、後に
斬首。
ーー江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされ
たのは後にも先にもこの1件のみ
 
寺沢堅高は天草の領地を没収。
後に精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となった。
         
キリシタンの結束力を脅威に感じた幕府は島原
の乱のようなことが起こらないように鎮圧の
1年後からポルトガル人を追放。
ーー「鎖国」が始まる。
 
その後ーー
天草は幕府直轄領となり、鈴木重成が初代の
代官となった。住民のほぼ全てが戦没して
無人地帯と化した地域には周辺の諸藩から
移住者を募り、復興に尽力した。
 
天草・島原の乱の元凶が過大な石高の算定にあ
ると判明したため、重成は検地をやり直し
半分の21,000石にするよう幕府に対して何度も
嘆願した。
 
しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶。
ーー重成は江戸の自邸で石高半減の書面を残し
  て切腹し、幕府に抗議した。
この事実は天草の領民に伝わり、皆一様に号泣
したといわれている。現在も鈴木重成を奉った
鈴木神社があり、天草の人々の信仰を集めている。
         ⇩
跡を継いだ2代目代官の養子の重辰も石高半減
を幕府に繰り返し訴えたため、一揆から20年
以上が経過した1659年(万治2年)に幕府は
石高半減を認め、天草はようやく平穏な暮らしになった。
         ⇩
天草は寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領と
なる。その後も、天草は幕府の直接の統治下
に置かれ、明治維新まで藩の設置ならびに
他藩への編入が行われる事はなかった。
 
一方、島原藩は松倉氏の後に治めた徳川氏譜代
の家臣である高力・松平・戸田の3氏によって
統治されることとなり1774年(安永3)年に廃藩置県を迎えた。

住所:長崎県南島原市南有馬町
TELL:0957-73-6706
営業時間:年中無休
定休日:なし
入城料:無料

関連サイト長崎観光/旅行ポータルサイト

総括ーーSummary

一般的には「島原の乱=キリシタンの反乱」
と広く周知されていますが島原・天草一揆
は単なる宗教反乱という見方では説明がつきません。
 
反乱にはキリシタンだけでなく、有馬氏や小西氏
の家臣や浪人天草氏、志岐氏の残党なども加わって
いました。
 
また、島原及び天草地方の全ての領民が一揆に参加
したわけではなく、幕府軍に加わったものも少なく
ありませんでした。
 
このように様々な思惑が入り乱れる中、幕府は
キリシタンの暴動と報道しました。それ以後、不都
合なものを排除するという動きが一層強化されました。
 
一般的に語られるキリシタンの宗教戦争
というイメージはあくまで一面でしかありません。
 
ちなみに剣豪で名高い生涯無敗の”宮本武蔵”も
幕府軍として参戦していましたーーこのとき55歳。
一揆勢に投石作戦で負傷し、百戦錬磨の剣豪も投石
と加齢には勝てなかったようです。
 
籠城したキリシタンたちは、来世まで友となること
を約束し、喜んで天に召されていったといいます。
しかし、信者でないものは死を前に何を想い、何を願ったのかーー
 
なぜ信仰一つでここまでできるのか私はこの地に
立つことで読み取ろうと試みましたが全くわかりませんでした。
 
原城跡で偶然出会ったキリシタンのおじさんに
聞いてもわかりません。きっと現代社会に生きる
私たちとの環境や豊かさ、感性の違いにより相容れないのだと勝手に考察します。
 
(次回)ーー水の都の一揆と自然の脅威に耐えた名城
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