南島原ーー島原の乱終焉の地 Minami simabara
目次ーーIndex
原城跡ーーHeritage
歴史の教科書ではさらっと言葉だけ習ってテストに
必ずと言ってもいいほど出題される”島原・天草の乱”
ーーあれ、島原だっけ。天草だっけ、一揆だっけ
と悩むこと請け合いです(笑)
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03102-9b0b1.jpg)
Column
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
キリスト教宣教地の日本列島の東端にあたる
長崎と天草地方は最も集中的に宣教が行われた
◆禁教令の中で長崎と天草地方において一般
社会と共生しながら信仰を続けた証明と
なる遺産群のことーー
◆潜伏キリシタンの伝統の始まりからその形成
維持、拡大の軌跡、終焉を迎えるまでの歴史
を語る上で必要不可欠な12の構成資産からなる。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03104-fdfd7.jpg)
原城跡へはこの道を真っ直ぐに進めば辿り着きます。
駐車場は本丸近くに駐車場があったのですが、私は
知らずに1km離れたバス停近くの無料駐車場に
置いて歩いて行きました。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03116-856d6.jpg)
なんとなくわかるーー島原・天草の乱(1/3)
天草一揆、島原の乱などとも呼ばれる幕末前
の最後の内戦。1637年(寛永14)10月25日
~1638年(寛永15)2月28日終結
江戸初期に起こった九州の島原半島南部と天草
諸島のキリシタン農民が主体となり、”キリシ
タン信仰の自由””荷重な租税からの解放”を
掲げて江戸幕府に抗戦した一揆。
【10月25日】
島原藩領主松倉重政による年貢の過重な取り立
て、厳しいキリシタン弾圧に対し、旧有馬氏の
家臣が中心になって反乱を画策し、有馬村の
代官林兵左衛門を殺害する。
ーーこの事件が引き金となり、幕府を巻き込む
大規模な一揆へと発展していく
⇩
【11月14日】
島原一揆勢は村々から強制的に勢力を集め
島原城に迫る。
これに呼応して、唐津藩主寺沢堅高による悪政
に苦しむ民衆により一揆が起こる。天草一揆と
呼ばれ、天草下島の北西にある富岡城へと進軍する。
ーー天草領主寺沢広高は石高を42,000石と報告
したが実際はその半分程度しかなかった
しかし、島原城も富岡城も落城にまでは至らず
幕府軍の反撃に備え、原城に籠城する島原一揆
勢と合流するため島原湾を渡った。
⇩
天草四郎率いる天草一揆勢も原城に入城し、城
の防備を固める。
ーー国内に潜伏するキリシタン蜂起させる狙い
とポルトガルの援軍を期待していたと考察
される
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03105-b30fa.jpg)
ー原城三の丸ー
島原の乱後には幕府軍により、破却され残存する
石垣の名残がわずかに残っているだけです。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03110-68dda.jpg)
原城の表玄関である大手門跡ですが、本丸らしき
ものは見当たりません。
島原の乱では3千500余名が守護していましたが
幕府軍の総攻撃により、細川軍がこの場所を破りました。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03111-8dfbf.jpg)
ー原城二の丸ー
だだっ広い広場にしか見えませんが、三の丸、二の
丸は自然の地形を生かした防御機能を備えていました。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03118-1472d.jpg)
島原の乱時には壮絶な戦が行われた戦場となった
この空濠は島原の乱の時に本丸を陸の孤島にする
ために築かれたものです。
籠城の際は竹や木で柱をたてカヤでその上を覆い
非戦闘員を収容していました。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/E58E9FE59F8E.jpg)
なんとなくわかるーー島原・天草の乱(2/3)
【12月10日】
幕府から1万5千石の小大名重臣板倉重昌が
派遣。原城で3万7千にもなった天草・島原
一揆勢鎮圧を目的とする。
【1月1日】功を焦った重昌は強引な総攻撃を
開始。
ーー板倉重昌は戦死、幕府軍の死傷者約4000人
対する一揆軍90余人と一揆軍の圧勝
⇩
幕府側は”知恵伊豆”の異名を持つ老中・松平
信綱を着陣させる。
さらに黒田、鍋島、細川といった九州諸大名
にも出陣を命じ、12万以上の軍勢に膨らんだ。
兵糧攻めを選択し、陸と海から完全包囲し
原城を無血開城に導く。
ーー断崖絶壁を下りて海藻を兵糧の足しにして
いた
ーー甲賀忍者を潜入させ、兵糧が少ないことを
諜報させた
⇩
3ヶ月にも及ぶ籠城で、一揆勢3万7千の食糧は
底をつく。キリシタンではないもの、強制的に
一揆に参加させられたものは城を出れば助命
すると投降を促したがそれを拒否。
ーー実際は投降するもの、脱走するものが少な
からずいた
ーー幕府軍への投降者の数は、1万人以上と
推測されるが記録なし
⇩
【2月27日午後】幕府軍総攻撃開始。
兵糧攻めにより城内の食料、弾薬は尽きかけて
おり、戦意も結束も失われていたため、28日
正午頃、原城落城。
総大将天草四郎は討ち取られ、一揆軍は非戦闘
員(推定13,000人以上)を含み、皆殺しにされ
乱は鎮圧された。
幕府軍の総攻撃とその後の処刑によって生き残
ったのは内通者であった絵師の山田右衛門作
ただ一人であったと言われる。
ーー一揆勢に妻子を人質に取られ、副将として
本丸を守備していた
約4か月に及ぶ島原・天草一揆はここに終結
する
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03148-9233c.jpg)
◆Pick up◆
原城跡 別名:日暮城
築城年:1496年(明応5)
築城主:有馬貴純
構造:城郭ー梯郭式平山城(海城)、天守ー不明
規模:周囲約4㎞
◯本丸、二の丸、三の丸、天草丸、鳩山出丸
から構成
◯海岸に突き出た丘に築かれ、東は有明海
西と北は低湿地に囲まれた天然の要害
◯1616年(元和2)一国一城令により廃城
◯1938年(昭和13)5月30日、国指定史跡に登録
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03120.jpg)
一揆の終結より130年ほど後、原城跡に野ざらし
となっていた遺骨を一揆軍、幕府軍問わず拾い集め
供養したホネカミ地蔵。
ホネカミとは”骨をかみしめる”の意味で自分自身の
ものにする、人々を救済と理解するべきだと言われ
ています。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03124-e0de8.jpg)
一揆後に石垣が壊され、築石が落とされた当時の
状況がそのまま展示されています。
江戸時代、廃城となったお城では一部が破壊される
ことがありますが、原城は徹底的に石垣が取り壊されています。
さらに一揆勢のものとみられる人骨も多く発見され
たことから戦いの壮絶さが見てとれます。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03130-2557b.jpg)
ー池尻口門跡ー
原城本丸に入る3つの門のひとつ。
発掘調査で門の礎石や石垣、階段が発見されています。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03170-58e76.jpg)
ー埋門跡ー
本丸に入って中心に位置する門跡。
一揆後、幕府軍によって壊され、埋められていまし
たが、発掘調査によって本来の石垣や階段、水路跡
が確認されました。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03135.jpg)
ー天草四郎時貞の墓碑ー
なんとなくわかるーー天草四郎時貞
救世主と呼ばれた絶世の美少年。
ありあまるカリスマと語り継がれる伝説の数々
が今も変わらない人気の秘密!?
1845年(安政元年)小西行長の家臣、益田甚兵衛
好次の長男として生まれる。
⇩
本名:益田四郎時貞 諱(いみな)ーー時貞
洗礼名:ジェロニモ、フランシスコ
ーー神童と呼ばれ教養高く恵まれた幼少時代を
過ごす一方、領主の悪政、キリシタン弾圧
により、領民は生活が圧迫
⇩
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03143-ada74.jpg)
数々の奇跡を目の前で披露。さらに生来のカリ
スマ性に惹かれ領民たちが周囲に集まる。
(その一例として)
・盲目の少女に触れると視力が回復
・海面を歩いた
このような逸話は、イエス・キリストが起こ
した奇跡として新約聖書に多数書かれており
四郎の名声を高める目的で創作されたとも
云われる。
⇩
1637年(寛永14)若干16歳で島原の乱に際し
一揆軍の総大将を務める。
四郎を救世主として崇め、象徴的存在として
数万もの人々を結束させる。
ーー追放された宣教師・マルコス・フェラロ
が残した書に”今から26年後、救世主の出
現を予言”したかのようなことが記されて
おり、その救世主が四郎であると民衆の間
に広まった
⇩
幕府が大軍を派遣することを知った一揆軍は
廃城であった原城に籠城。この時点で浪人
農民含め37,000人にまで膨れあがり、武器
弾薬や食料も豊富にあった。
ーー四郎本人はまだ10代半ばの少年であり
カリスマ的な人気を浪人や庄屋たちに利用
されていたに過ぎないと見られている
⇩
3回に渡る幕府軍の攻撃を跳ね除け、奮戦するが
兵糧攻めに方針を転換。90日間原城にて籠城し
たが幕府軍の総攻撃により終結。
ーー「いま籠城している者は、来世まで友に
なる」その四郎の言葉を信じ、最後まで
抵抗を続けた
四郎も討ち取られ、その首は長崎の出島のポル
トガル商館前でさらし首にされる。享年17歳
ーー姿を誰も知らないため、派手な服装の少年
の首をさらした説
ーー四郎の母親が、一揆軍の死者の首の一つに
目を止め涙した様子から、四郎の死を確認
できたという説
四郎の馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪である
ことから豊臣秀頼が大阪から逃げ延び、天草
四郎となった伝説もあるが信憑性は低い。
ーー豊臣家の権威の利用を図ったとも考えられ
ている
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03165-c663a.jpg)
ー本丸門跡ー
原城本丸へ続く最後の門。
総攻撃時には細川軍がここを突破しました。
建物の基礎となる礎石が並んでいることから櫓門
が建てられていたと考えられています。
他の門跡同様に一揆後に破壊され礎石の一部が
わずかに残っているだけです。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03153-a38e7.jpg)
ー原城本丸ー
本丸は石垣に囲まれ、出入口は桝形を採用しており
高い石垣、建物に瓦を使用建物を礎石上に備える
近世城郭の特徴を持っていました。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03141-f5238.jpg)
1992年(平成4)から始まった発掘調査によって
本丸地区から多くの遺構・遺物が出土しました。
その中でも礼拝堂が建てられた記録が残っていま
す。北側では十字架、メダイ、ロザリオなどキリ
シタン関係遺物が発見されました。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03163-c7fb5.jpg)
ー櫓台跡(天守台跡)ー
発掘調査によって大きく張り出した石垣の跡
が発見されました。
宣教師が残した報告書によると築城時にはこの場所
に3層の櫓が建てられていたことが記されており
天守相当の建物があったと推定されています。
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03158.jpg)
見晴らしが良く幕府軍の動きをいち早く察知でき
そうです。まあ、四方を大軍で取り囲まれたら
為す術もありませんが…
松平信綱は日本との貿易を独占し、ポルトガルを
排除しようとするオランダと結びつき、海上から
砲撃を行いました。
ーーポルトガルからの援軍を期待している一揆軍
の戦意を失わせるという思惑
なんとなくわかるーー島原・天草の乱(3/3)
島原藩主の松倉勝家は改易処分となり、後に
斬首。
ーー江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされ
たのは後にも先にもこの1件のみ
寺沢堅高は天草の領地を没収。
後に精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となった。
キリシタンの結束力を脅威に感じた幕府は島原
の乱のようなことが起こらないように鎮圧の
1年後からポルトガル人を追放。
ーー「鎖国」が始まる。
その後ーー
天草は幕府直轄領となり、鈴木重成が初代の
代官となった。住民のほぼ全てが戦没して
無人地帯と化した地域には周辺の諸藩から
移住者を募り、復興に尽力した。
天草・島原の乱の元凶が過大な石高の算定にあ
ると判明したため、重成は検地をやり直し
半分の21,000石にするよう幕府に対して何度も
嘆願した。
しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶。
ーー重成は江戸の自邸で石高半減の書面を残し
て切腹し、幕府に抗議した。
この事実は天草の領民に伝わり、皆一様に号泣
したといわれている。現在も鈴木重成を奉った
鈴木神社があり、天草の人々の信仰を集めている。
⇩
跡を継いだ2代目代官の養子の重辰も石高半減
を幕府に繰り返し訴えたため、一揆から20年
以上が経過した1659年(万治2年)に幕府は
石高半減を認め、天草はようやく平穏な暮らしになった。
⇩
天草は寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領と
なる。その後も、天草は幕府の直接の統治下
に置かれ、明治維新まで藩の設置ならびに
他藩への編入が行われる事はなかった。
一方、島原藩は松倉氏の後に治めた徳川氏譜代
の家臣である高力・松平・戸田の3氏によって
統治されることとなり1774年(安永3)年に廃藩置県を迎えた。
住所:長崎県南島原市南有馬町
TELL:0957-73-6706
営業時間:年中無休
定休日:なし
入城料:無料
関連サイト:長崎観光/旅行ポータルサイト
総括ーーSummary
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2020/03/DSC03159-b5ab4.jpg)
一般的には「島原の乱=キリシタンの反乱」
と広く周知されていますが島原・天草一揆
は単なる宗教反乱という見方では説明がつきません。
反乱にはキリシタンだけでなく、有馬氏や小西氏
の家臣や浪人天草氏、志岐氏の残党なども加わって
いました。
また、島原及び天草地方の全ての領民が一揆に参加
したわけではなく、幕府軍に加わったものも少なく
ありませんでした。
このように様々な思惑が入り乱れる中、幕府は
キリシタンの暴動と報道しました。それ以後、不都
合なものを排除するという動きが一層強化されました。
一般的に語られるキリシタンの宗教戦争
というイメージはあくまで一面でしかありません。
ちなみに剣豪で名高い生涯無敗の”宮本武蔵”も
幕府軍として参戦していましたーーこのとき55歳。
一揆勢に投石作戦で負傷し、百戦錬磨の剣豪も投石
と加齢には勝てなかったようです。
籠城したキリシタンたちは、来世まで友となること
を約束し、喜んで天に召されていったといいます。
しかし、信者でないものは死を前に何を想い、何を願ったのかーー
なぜ信仰一つでここまでできるのか私はこの地に
立つことで読み取ろうと試みましたが全くわかりませんでした。
原城跡で偶然出会ったキリシタンのおじさんに
聞いてもわかりません。きっと現代社会に生きる
私たちとの環境や豊かさ、感性の違いにより相容れないのだと勝手に考察します。
(次回)ーー水の都の一揆と自然の脅威に耐えた名城