鹿児島ーー日本を近代化に導いた薩摩 Kagoshima
目次ーーIndex
西郷隆盛銅像ーーStatue
西郷隆盛銅像と城山公園や照國神社、天文館
といった観光スポットが近い地下の駐車場。
観光に便利な綺麗に整備された公園です。
上野の西郷どんより軍服姿で凛々しく犬も連れていません。
大河ドラマーー西郷どん人気で城山をバックに
鹿児島を代表する観光スポットです。
なんとなくわかるーー西郷隆盛
西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新三傑」
通称:西郷吉之助 愛称:西郷どん(せごどん)
ラストサムライと呼ばれた類まれなるリーダーシップ。
1828年(文政10年)12月7日薩摩国鹿児島城下
加治屋町(下加治屋町方限)に下級藩士の長男と
して生まれる。
ーー10歳頃に喧嘩を仲裁する際に刀で腕の神経
を切り学問の道を志す
ーー同じ郷中仲間には大久保利通がいた
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18歳の時に島津斉彬が薩摩藩主になる。
斉彬の郡方書役助となり、直接教えを受ける。
ーー家族が相次いで亡くなり、家督を相続する
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1854年(安政元年)江戸参勤で中御小姓・定御供
・江戸詰として江戸に赴き、諸藩の動向を
探ったり斉彬の手足となって働く。
第13代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫が
結婚。
ーー一橋家の慶喜を将軍とし、公武合体し
開国して富国強兵をはかる狙いがあった
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1858年(安政5)島津斉彬が急逝ーーお由羅騒動
斉彬の弟、島津久光の子・忠義が家督相続し
島津久光が後見人となる。
ーー西郷も殉死しようとするも月照らに説得
され思いとどまる
幕府の追及を恐れ、月照らを東目(日向国)へ
追放。竜ヶ水沖で月照とともに入水。
ーー月照は死亡したが、西郷は一命を取り留め
る
⇩
1859年、藩当局は幕府から隠すため西郷を奄美
大島に潜居させる。
ーーストレスからの加食で肥満体系になる
ーー島妻(愛加那)を娶り、長男・菊次郎が誕生
⇩
1862年、薩摩に戻るが久光と折り合わず
徳之島沖永良部島へ流罪。
ーー西郷家では知行・家財が没収される
ーー小松帯刀や大久保利通の尽力により
1864年に赦免召還
⇩
1864年(元治元年)禁門の変
諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を
撃退。
ーー長州や幕府が朝廷を独占するのを防ぐ
長州に対して、朝廷から征討の勅命が下さ
れる。
ーー勝海舟の意見を参考にして、長州に対して
緩和策で臨む
ーー幕藩体制が内部から瓦解したため、掛声
倒れに終わる
⇩
1866年(慶応2)坂本龍馬が仲介役となり
桂小五郎と西郷隆盛の間で「薩長同盟」
を結ぶ。
ーー薩摩藩名義で大量の兵器や蒸気船ユニオン
号を購入し、長州に引き渡す
⇩
1867年(慶応3)徳川慶喜が大政奉還を建白。
1868年(慶応4)鳥羽・伏見から戊辰戦争へと拡大。
ーー慶喜への処遇に不満の旧幕府軍と新政府軍
が衝突した戦で五稜郭で終結
⇩
西郷は武力討幕論を主張し、東海道の要衝・箱根を占領。
その後、江戸城総攻撃の直前に勝海舟と会談。
江戸城を明け渡し、無血開城が行なわれる。
ーーもしも旧幕府と新政府の全面戦争となれば
外国勢力が介入するおそれがあった
ーー江戸を火の海にしたくないという勝と西郷
の考え
⇩
明治時代
明治の時代になり、薩摩へ帰郷し隠居するが
新政府の力となるため上京を決意。
1871年(明治4)に参議として陸軍大将などを兼務。
ーー版籍奉還、廃藩置県など政治に関わる仕事
で活躍
大久保利通らと対立し明治政府を辞職ーー明治
六年政変鹿児島に戻り、私学校を設立し士族
たちの教育に専念する。
ーー朝鮮との国交回復問題で武力行使に反対
する
ーー自由民権運動や佐賀の乱につながる
⇩
1877年(明治10)西南戦争
士族達の新政府に対する不平不満を抑えること
が出来ずに指導者となる。
ーー「おいの体はさしあげもそ(俺の体は差し上
げよう)」と語ったと伝えられる
⇩
敗北して城山で介錯を命じるーー1877年9月24
日享年49歳。西郷は死後、官位をとりあげられ
賊軍の将として遇された。
1889年(明治22)2月11日、大日本帝国憲法発布
に伴う大赦で赦され、正三位を追贈される。
ーー西郷の人柄を愛した明治天皇や黒田清隆ら
の尽力
現在のところ西郷の写真は確認されていないため
肖像画について西郷隆盛の親戚を参考に想像で
描かれたものです。
小ネタとして道の反対側に薩摩犬の像が置かれて
いるのでしゃがんで撮ると一緒に写すことができます。
住所:鹿児島県鹿児島市城山町4-36
TELL:099-298-5111(観光交流センター)
営業時間:年中無休
休業日:なし
入場料:無料
関連サイト:ー
城山公園ーーPark
探勝園方面から登山開始。
無謀にも自転車で行けると思いましたが、階段で断念しました。
古くは鎌倉時代源頼朝の御家人として活躍した渋谷
重国の居城跡と伝えられています。
西南戦争最後の激戦地でもあり、それにまつわる
史跡が数多く残されています。
小高い山ですが急な斜面が続き、山道は険しいため
結構しんどいです(汗)
市民にとっては犬の散歩やジョギングなど憩いの場
になっています。
城山公園展望台からは桜島を正面に捉え、錦江湾
鹿児島市街地を一望できます。
苦労した分、絶景がより素晴らしく感じます。
鹿児島に観光に来たならマスト的なスポットです。
ー石仏十三体ー
弘法大師の徳を慕い鹿児島市の人々が四国88ヶ所に
なぞられ、大師の尊像88体を建立しました。
この城山の13体をはじめ、伊敷の梅ヶ淵や谷山の
慈眼寺に安置されています。
西郷洞窟の近くにある大きな西郷さんの銅像が目印
の展示場。西郷洞窟と違って自由に入ることができます。
洞窟の奥には西郷さんの銅像と西南戦争の事の顛末
のイラスト、三十六景の写真が展示されています。
ー西郷隆盛洞窟ー
観光客用の駐車場が無料で開放されています。
西郷軍は、わずか300余人で城山に立て籠もり
ました。
これを囲む政府軍の数は何重にも柵をめぐらせ4万人
西郷隆盛は最後の5日間をこの洞窟で過ごしました。
なんとなくわかるーー西南戦争(西南の役)
1877年(明治10)西郷隆盛をリーダー
にして起こった士族による武力反乱。
近代、最大で最後の内戦。
1873年(明治6)「明治六年の政変」
征韓論が裁可されず、西郷は辞職。
鹿児島県全域に私学校とその分校を創設。
ーー西郷と共に下野した不平士族たちを統率。
県内の若者を教育する目的
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近代化を進める政府は廃刀令、金禄公債証書
発行条例を発布。
ーー帯刀・俸禄という旧武士の特権を奪う
ものであり士族に経済的な危害を与える
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1877年(明治10年1月30日)帰郷の名目で鹿児島
へと派遣された中原らが”西郷暗殺計画”を自白。
西郷は暗殺計画の噂で激昂した私学校徒に対処
するため鹿児島へ帰った。
ーー視察(しさつ)を刺殺(しさつ)と聞き間違えた
可能性がある
⇩
(2月4日)西郷は旧厩跡にあった私学校本校で
私学校幹部および分校長ら200余名が集合して
大評議が開かれる。
ーーもはや後戻りできないと悟った西郷は
挙兵を認める
15日、60年ぶり大雪の降りしきる中、薩軍は
鹿児島から熊本方面へ進発した。
ーー薩軍約3万人 vs 政府軍7万人
⇩
薩軍の情報を掴んでいた政府軍は籠城を選択
し熊本城を守り抜く。
ーー「おいどんは官軍に負けたのではない。
清正公に負けたのだ」
ーー政府は電信などの近代的な通信網が整備
されていたといわれる
23日、熊本城を包囲する一方、残りは北上
して小倉を強襲する。
ーー政府軍主力により小倉への電撃作戦は失敗
⇩
(3月3日~3月20日)政府軍が南下し、現在の
熊本県の田原坂・吉次峠で激闘が繰り広げられる。
ーー(4月17日)熊本城の包囲が解かれ、薩軍は
九州南部を転戦する
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(6月1日)人吉、(7月24日)都城の陥落
(7月31日)には宮崎、延岡を政府軍が攻略。
(8月16日)には長井村に追い詰められ薩軍は
解散。
ーー薩軍は政府軍へ投降する将兵が相次いだ
⇩
(9月24日)各地で政府軍に敗退した薩摩軍は
鹿児島に撤退し、城山に籠り、最後の総攻撃
を仕掛けるが次々と銃弾に倒れ、西郷は介錯。
7ヶ月にわたる西南戦争は終結
ーー「晋どん、もうここらでよか」
ーー官軍6,403人、西郷軍6,765人戦死
西南戦争の最後の司令部。
新政府の参議まで昇り詰め、陸軍大将も兼任した
ラストサムライと呼ばれるカリスマの漢の最後の地。
それがこんな小さな洞窟とは何ともいえない虚しい
気持ちに襲われました。
JRのトンネル上部に「敬天愛人」の銘板が掲げら
れています。
”敬天愛人”ーー天を敬い(うやまい)人を愛すること。
西郷隆盛が好んで使い、大きな影響を与えた
言葉です。
ーーこの言葉を座右の銘とする経営者も多いです
ー西郷隆盛終焉の地ー
死を覚悟して洞窟を飛び出した西郷は岩崎谷を下る
途中で流れ弾が脇腹と太腿に弾丸が命中しました。
「晋どん、もうここらでよか」
西郷は配下の別府晋介に介錯をあおぎ49年の波乱
万丈な生涯に幕を閉じました。
その後、別府晋介のほか、桐野利秋、村田新八ら
幹部も西郷を追うように戦死を遂げます。
ー薩摩義士碑ー
木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水工事を
成し遂げた薩摩義士の碑。
1年3ヶ月の工事期間中に84名が犠牲になり工費は
40万両と当初の予定を大幅にオーバーしました。
多大な人的犠牲のうえで完遂した偉業を岐阜の人々
の感謝の念は計り知れないものだったことでしょう。
住所:鹿児島県鹿児島市城山町22−13
TELL:099-298-5111(観光交流センター)
営業時間:年中無休
休業日:なし
入場料:無料
関連サイト:ー
総括ーーSummary
薩摩が諸藩と明治維新という大業を成し遂げた
背景には関ケ原から続く徳川と島津の因縁が
関係しています。
発端は天下分け目の決戦となった「関ヶ原の戦い」
1,500の軍勢を率いて島津義弘は参陣しました。
しかし、義弘ははじめから西軍に味方すると
決めていたわけではなく、京の伏見城を守る
徳川家康の重臣・鳥居元忠に追い返され
なし崩し的に西軍に属すことになりました。
敗戦が濃厚となり、島津勢は島津の退き口
という有名な撤退戦を成功させました。
戦場の中央突破を図り、命からがら逃げかえり
戦前1,500人の人数が最後は80人程だった
といいます。
ーー武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られる
義弘の人望のもとに集まった忠誠心の強い
家臣ばかり
関ケ原の戦後処理として兄である義久の根強い交渉
やクセのある薩摩の管理を島津に一任したい徳川
幕府の井伊直正の奔走によって本領を安堵されました。
ーー関ヶ原に主力を送らなかった島津家には
1万を越す兵力が健在であり、苦戦必死でした
しかし、徳川にも島津にも根深い不信感が生まれ
たのも事実です。
ーー家康はこのことが心残りで、遺体を薩摩に向け
て葬るように遺言を残したとされています
ちなみに毛利家では毎年正月に「殿、今年は徳川を
討たれますか?」という家臣の問いかけに、藩主が
「まだ時期尚早だ」と答えるのが恒例行事でした。
長州藩の毛利、薩摩藩の島津、土佐藩の長宗我部
など西軍についた大名はことごとく減封、改易など
厳しい処分を受けた遺恨が幕末の倒幕運動に
繋がっていきました。
つまり、幕末に起きた戊辰戦争は
関ケ原の延長戦という見方もできます。
(次回)ーー島津に暗君なし