鹿児島ーー日本の近代化を牽引した薩摩 Kagoshima
目次ーーIndex
鶴丸城跡ーーRuins
◆Pick up◆
鹿児島城 別名:鶴丸城
築造年: 1602年(慶長7年)
築造主: 島津忠恒(家久)
構造:城郭ー平山城、天守ーなし
◯屋形の形状が鶴が羽を広げたようであった
ことから”鶴丸城”と呼ばれる。
◯西軍についた島津が徳川家康の脅威に対抗する
手段として建築。
鹿児島では一般的に古くから別名の鶴丸城で呼ばれています。
ー天璋院篤姫像ー
なんとなくわかるーー天璋院・篤姫
薩摩藩と幕府の間を取り持つ橋渡し。
徳川の人間として生きた大河ドラマ「篤姫」
の主人公
1835年(天保6)12月19日、今和泉家第5代当
主。忠剛の第4子として現在の鹿児島市に生ま
れる。
ーー幼少の頃は一子(かつこ)と名付けられ大変
活発で器量の良い子だった
ーー勇気があり、男の子だったらと悔しがって
いたというエピソードがある
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1853年(嘉永6)18歳の時、従兄である薩摩藩主
・島津斉彬の養女となり、同年8月21日陸路で
江戸へ向かう。
ーー第13代将軍徳川家定は2人の妻を公家から
迎えるが、2人とも早逝
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1856年(安政3)右大臣・近衛忠煕の養女を経て
同年11月に第13代将軍・徳川家定の正室となり
大奥に入る。
ーー輿入れは渋谷の藩邸(現常陸宮邸)から江戸
城まで続き、先頭が城内に到着しても最後
尾は藩邸にいたという
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1858年(安政5年)7月6日に家定が急死。続いて
7月16日には斉彬まで死去してしまう。
家定の死を受け篤姫は落飾し、天璋院と名乗り
前将軍の妻として大奥を仕切る。
ーー篤姫と家定の結婚生活はわずか1年と9ヶ月
だった
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徳川家茂が14代将軍に就任。1862年(文久2)に
は家茂の正室として皇女・和宮が大奥へ入る事
になる。
ーー薩摩藩は薩摩帰国を申し出るが、天璋院
自身が拒否する
ーー武家と皇室、嫁姑関係で不仲だったが後
に和解
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1867年(慶応3)第15代将軍徳川慶喜が大政奉還
天璋院と和宮は、島津家や朝廷に徳川家の救済
助命を嘆願する。西郷にも救済懇願の書状を送
る。
ーー天璋院も和宮も慶喜を快く思っていなか
った
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1868年(明治元年)江戸城無血開城を実現
させる。その後、養母として16代将軍に
なる予定だった徳川家達を東京都千駄ヶ谷
の徳川宗家邸で育て上げる。
ーー家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷で
ある鹿児島に戻ることはなかった
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規律の厳しかった大奥とは違い、料亭や芝居
見物に出入りし、自由気ままで庶民的な生活
を楽しむ。
薩摩藩からの金銭援助を断り、元大奥関係者
の就職や縁談を斡旋。
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篤姫は「徳川の女」として生涯を終える。
1883年(明治16)11月13日、徳川宗家邸で
脳溢血で倒れ11月20日に49歳で死去。
ーー上野の寛永寺境内にある夫・家定の墓の隣
に埋葬される
ーー葬儀の際には、見送りの人々が1万人も集
まったといわれる
最期に手元に残った所持金は3円。
(現在の価値で6万円)だったと言われています。
また日本人として初めてミシンを扱った人物と
伝わっています。
ー鹿児島県歴史資料センター黎明館ー
1Fホールは「篤姫」コーナー。
ドラマの中で実際に使われた衣裳や小道具類を展示しています。
写真(左)は篤姫が鶴丸城に入場する際、徳川家への
入興の際に乗った女乗物。
写真(右)は鶴丸城で厳しいお姫様教育を受けた衣装です。
2階には特別展”西郷どん展”が大河ドラマ
「西郷どん」の放送に関連して期間限定で開催されていました。
西郷隆盛を中心に鹿児島の偉人たちのゆかりの品々
から西郷隆盛のその凄まじいまでの生き様を学べます。
住所:鹿児島県鹿児島市城山町7番2号
TELL:099-222-5100
開館時間:9時00分~18時00分
(入館は午後5時30分)
休館日:月曜日、毎月25日
12月31日~1月2日
入館料:一般¥1,000 大学・高校生¥600
中学生以下・障害者無料
寄り道ーーYORIMICHI
A little detour
ー西南戦争の銃弾跡ー
西南戦争のとき、鹿児島の争奪をめぐり、政府軍
と薩軍がこの地で激しい攻防を繰り広げました。
政府軍が放った銃弾の跡が当時の激戦の様子
を今に物語っています。
西郷は若者たちのためにこの私学校を作りましたが
戦闘の激化によってわずか4年で閉校することとなりました。
住所:鹿児島県鹿児島市城山町8
TELL:ー
開館時間:年中無休
休館日:なし
入館料:無料
関連サイト:ー
照国神社ーーShrine
大鳥居が立派な城山を背後に据える鹿児島
を代表する神社。
鳥の形に刈られたイヌマキの木が整えられていて
境内が綺麗です。
◆Pick up◆
照国神社(てるくにじんじゃ)
創建: 1862年(文久2年)
御祭神: 照国大明神(薩摩藩第11代藩主・島津斉彬)
構造:一間社流造
◯旧別格官幣社、別表神社
◯孝明天皇の勅命により「照国大明神」の神号
授与を受けて造営
敷地内には斉彬公、久光公、忠義公の像が建って
います。忘れずに参拝しましょうーー
なんとなくわかるーー島津斉彬
「幕末の四賢侯」の一人に数えられる稀代の
名君。西郷隆盛ら幕末に名を遺す人材を見出した。
1809年(文化6)3月14日、島津斉興の長男とし
て江戸薩摩藩邸で生まれる。
ーー母・弥姫はこの時代には珍しく自身の手で
養育
ーー曽祖父第8代藩主・重豪の影響を受け、西洋
に興味をもつ
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斉興の側室・お由羅の方らは、お由羅の子で
斉彬の異母弟に当たる久光を藩主にしようと
画策。
斉彬派は久光やお由羅を暗殺計画を立てるが
情報が事前に発覚して首謀者13名は切腹、関係
者約50名が遠島・謹慎に処せられた。
ーーお由羅騒動(高崎崩れ)
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1851年(嘉永4)斉興が隠居し、斉彬が第11代藩
主に就任。洋学を重んじ、洋式造船など反射炉
を作ったり、斉彬の主導で「集成館事業」が
行われる。
人材発掘にも精を出し、下士階級出身の西郷隆
盛や大久保利通らを起用し、維新の功労者から
尊敬を集める。
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「幕末の四賢侯(松平慶永・伊達宗城・山内豊信
)」と藩主就任以前から交流をもっていたため
彼らと一緒に公武合体を主張する。
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1858年(安政5)大老の井伊直弼と将軍継嗣問題
で対立。次期将軍として徳川慶喜を推すが
紀州藩主・徳川慶福を推す大老の強権により
反対派を弾圧ーー安政の大獄
ーー篤姫を家定の正室として嫁がせ、公家を
通じて慶喜を朝廷に請願
ーー慶福が推す第14代将軍・徳川家茂となり
斉彬ら敗北
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同年7月8日、武力で対抗しようと鶴丸城で閲兵
の最中に急病となり、7月16日に死去。満49歳。
ーー死因はコレラということになってるが、
嫡子がいずれも夭逝していることから
斉興や久光またはその支持者の陰謀である
との噂が囁かれる
斉彬の死後、その遺言により、久光の長男・忠義
が後を継ぎました。その後見役として斉彬の遺志
を継ぎ久光が実権を握ります。
当初は公武合体を唱えていましたが、薩英戦争に
より倒幕へと傾きました。
明治時代になると、内閣顧問、左大臣を務めるが
政府首脳と対立し、鹿児島へ帰郷。
西南戦争では中立を保ち、桜島に転居。
1887年(明治20)70歳で病死。国葬により
福昌寺に埋葬。
ーー晩年隠居していた玉里邸の黒門から国道
までの道路は”国葬道路”と呼ばれています。
久光の長男ーー島津忠義薩摩藩第12代最後の藩主
として藩政改革と陸海軍の充実に務めました。
明治維新後は版籍奉還を進んで行い、鹿児島藩
の知事、貴族院議員となり58歳で国葬される。
ーー父・久光の遺言でマゲを切らなかったと
いわれています
ー電信使用の地ー
1857年(安政4)島津斉彬が本丸から照国神社の
探勝園までの間に日本で初めて電信通信を
始めました。
ーー電線の長さは約三百余間(500~600m)
住所:鹿児島市照国町19-35
TELL:099-222-1820
受付時間:8時30分~17時00分
休館日:年中無休
入館料:無料
総括ーーSummary
島津は鎌倉時代から江戸時代まで続く名門中
の名門です。
島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名
さらには戦国大名へと時代と共に発展し、その
全盛期には九州のほぼ全土を制圧しました。
今に続く島津氏の歴代当主から有能な人材
を多く輩出してきたため「島津に暗君なし」
なんて言葉で称えられています。
島津斉彬はその系譜を受け継ぎました。
斉彬は曽祖父の影響で西洋にのめり込みました。
そのことが、実父である斉興との確執を生み
斉彬に家督を譲ると藩の散財の困窮を招くとして
40歳を過ぎてもなかなか家督を譲りませんでした。
異母弟である久光との仲についても悪くない
どころかむしろ良好で、斉彬の家督相続後は
藩政を支える重臣として信頼を置いていました。
幕末薩摩藩の礎を築いた斉彬ですが、歴代藩主
が行った数々の功績があったからこそ維新の雄藩
として新政府で中核を担ったことは事実です。
そして国父と呼ばれる久光、今の上皇の高祖父
にあたる名君です。島津氏は支流・分家が数多く
明治以降も存続し侯爵や男爵に授爵されています。
(次回)ーー「敬天愛人」を貫いた人々に愛される人柄
と英雄としての顔