【島原城】in長崎16ーー水都に雄大にそびえる白い五層の天守閣の周りで湧水めぐり

長崎ーーNagasaki
島原ーー鯉の泳ぐまち Simabara
島原・天草一揆を語る上で、もうひとつ重要な戦場
の歴史を紹介していきます。
 
キリシタン関連遺跡ではありませんが、領主の松倉
氏が分不相応な城を建てるために圧政を敷いた一揆
のきっかけであり、一揆軍の猛攻に耐えた堅固な
造りーー島原城
 
武家屋敷に近い場所に無料で広い観光用の駐車場
が解放されています。
 
利用時間が8時50分~17時30分のためそれまでに
戻るようにしましょう。
 
駐車場の隣には”心字池”
明治18年頃、この地に住んでいた山本氏が豊富な
湧水を利用し、かたどって造った池です。山側から
見ると「心」の字に見えます。
 
立派な石垣が見えます。苔むした城壁と白亜の
天守閣の対比が素晴らしいです。
 
破風を設けないため、比較的スッキリとしたデザイ
ンですが近くで見上げるとその圧倒的な存在感に
魅せられます。
 
石垣と堀は江戸時代から残っており、びっしり茂る
蓮池には農家がレンコンを栽培しています。秋には
レンコン掘り大会が開催されます。
 
島原城が建っている地は有馬晴信が本陣を構えて
龍造寺隆信を撃破した場所です。
 
幕府の命により、五条(奈良県)から入封した築城の
名手、松倉重政が島原城を築きました。
4万石の大名には過剰すぎる立派なお城です。
 
戦国時代の天草・島原地方は、有馬晴信・小西行長
といったキリシタン大名が領主を務めていたため
領民の多くがキリスタン信者でした。
 
島原城の規模は膨大で工事はそれぞれの工区と工期
を決め、期限より遅ければ罰せられ、早ければ賞を
与えられました。この絵は工事状況を一画面に
現したものです。
 
1日300~500人を作業に従事させて7年と3ヶ月で完成。
その間、領民の経済的な重圧は計り知れません。
特に税の摂取はあらゆるものに課税をして税金を搾
り取り農民たちの中には餓死者が出るほどでした。
 
島原の乱が起きたのは城の完成から13年目の事で
江戸幕府の領民に対する過酷な税の搾取と、キリス
ト教弾圧に対し、民衆の怒りが爆発したために起き
たといわれています。
 
◆Pick up◆

島原城 別名:森岳城、高来城

築造年:1618年(元和4)~1624年(寛永元年)
築造主:松倉重政
構造:城郭ー連郭式平城
   天守ー独立式層塔型5重5階(1964年RC造復興)
      独立式層塔型4重5階(非現存)

◯火山灰や溶岩流からなる地盤の工事は困難を極めた

◯1871年(明治3)廃城

◯1964年(昭和39)天守閣が復元するなど昔の面影を取り戻す

 
1階はキリシタン資料館。
刃を閉じるとクロス(十字架)が現れるはさみ
マリア観音などかくれキリシタンの資料が数多く
展示されています。
 
特に目を奪われた展示品は”雲仙地獄の殉教図”
です。地獄責めと呼ばれ、その悲惨さは
ヨーロッパの人々に大きな衝撃を与えました。
 
島原の乱の城攻防図はまさに四面楚歌。
海外からの援軍を期待せざるを得なくなる状況の
中、毎日水平線を眺めていたことでしょう。
 
信仰の中心として籠城中にも掲げられていた
”天草四郎陣中旗”聖餅と聖杯を2体の天使が拝み
上部には「いと尊き秘蹟ほめ尊まれ給え」
とポルトガル語で描かれています。
 
5階は天守閣で展望所になっていて島原市内や
美しい眉山が眺められます。
 
天気は微妙でしたが海の向こうには熊本の山々
が広がっている様子をかろうじて観察できました。
 
西望記念館(巽の櫓)
日本彫塑会の巨匠で文化勲章を受章した
郷土出身の芸術家ーー北村西望
 
特に長崎平和祈念像の作者として広く名前が知れ
渡っています。この地にアトリエを建て北村氏の
代表作60点を展示されています。
 
平和像の顔はデッサンを何百と描き直し、苦心を
重ねた末、じっと目をつぶりきびしくもやさしい
表情の男の顔が完成しました。
 
構想的試作のひとつの立ちポーズです。
立像ではバランスが悪く、重量感に乏しいという
ことで現在のような座像になりました。
 
民具資料館(丑寅の櫓)
市民から寄付された明治から昭和までの暮らしの
民具の数々が展示されています。
 
現在、島原半島で発見されたキリシタン墓碑は
約120基あります。中央に干十字が刻まれている
ものや蒲鉾形、箱型、平型など色んな形の墓碑が
あります。
 
住所:長崎県雲仙市愛野町乙愛津5864
TELL:0957-36-2000
開館時間:8時30分~17時30分
定休日:年中無休
入館料:無料

関連サイトhttp://www.n-izumiya.com/

姫松屋 本店ーーGourmet

島原城のお膝元に店を構えているので迷わないで
辿り着けます。
 
ミシュランガイドにも掲載されていて島原に観光
に来た人はこの有名店に訪れるため土日祝はかなり混雑します。
 
島原の乱のとき、一揆軍の総大将天草四郎は
籠城の際に三万七千信者や農民たちにもちを兵糧
として貯えさせ山や海から色々な材料を集めて
雑煮を炊き、栄養をとり約3ヶ月も戦ったと言われています。
 
この逸話をもとに文化10年初代糀屋善衛エ門が
味付し島原の郷土料理として”具雑煮”を生み出しました。
 
具雑煮(並)」¥980
お雑煮と似てますが、さっぱりとした重厚な具材
の一つ一つに味が染みわたり、ヘルシーながら
満足感が高いです。特に出汁は何を組合わせた
のか気になります。
 
島原の乱時にはこれよりもっと具材が少なく味付
けも薄く、質素だったと思うので籠城してた人たち
にも食べてもらいたかったと感じました。お正月と
言わず、定期的に食べたい味です。
 

TELL:0957-63-7272
営業時間:11時00分~19時00分
     (L.O.18時30分)
定休日:第二火曜日
駐車場:有

関連サイトhttp://www.himematsuya.jp/

鯉の泳ぐまちーーTown

島原市は火山の恩恵により、古来から湧水に恵まれ
水の都」と称されるくらい湧き水が豊富です。
 
市内には約60ケ所の湧水ポイントがあり
日本名水百選」に登録されています。
ーー1日に約22万トン湧いているそうです
 
昔と変わらない景観で水路が張り巡らされた城下町
は地元住民によって綺麗に保たれた水質に鮮やかな
模様の鯉が元気に泳ぎ回っています。
 
水路を生かしたまちづくりと、子どもたちの豊かな
心を育てるために昭和53年7月水路に鯉を放流した
ことが始まりです。
 
その後、多くの市民が協力し、今では水の都、島原
を代表する名所となっています。
 
耳洗公園(じせんこうえん)ー
昔お茶どころだったといわれ、ここから湧き出る
清水でお茶をたてて白土湖と清水を眺めていた
憩いの場であったそうです。
 
ここを訪れる人々は「世の中のいやなことわずらわ
しいことの全てが清い水で洗い流される」として
”耳洗亭”とよんでいました。

島原カトリック教会

DSC03324.JPG
1997年(平成9)白土湖そばにドーム型の教会が建て
られました。
 
敷地内には天正遣欧使節の一人で、最後まで九州
の信徒を訪問し続けた中浦ジュリアン神父像が
あります。
 
DSC03335.JPG
なんとなくわかるーー中浦ジュリアン

Nakaura Julian(1568-1633)
ローマに行った4人の使節の一人。
一番凡庸で特に目立ったとこのない少年
なぜこの道を選び、自らの命をかけたのかーー
 
1568年(安政元年)長崎西海町中浦に誕生。
創設された有馬のセミナリヨ(小神学校)の
一期生として入学。
         ⇩
1582年(天正10)伊藤マンショ、千々和ミゲル
原マルチノと共に天正少年使節として渡欧。
ーー本能寺の変があった年
ーーイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリ
  ニャーノが随行。日本の布教事業の立て
  直しと、司祭育成を目的
         
渡欧先のエピソード
・舞踏会の時は、ジュリアンは緊張のあまり
思わず誘った相手が老婦人だったという。
・ローマ法王とに謁見の数日前に発熱するが
無理して謁見の場へ行くが、途中で具合が悪
くなり、退出。
         ⇩
1590年(天正18)聚楽第で豊臣秀吉に謁見し
ヨーロッパ文化を紹介。
ーー秀吉は少年らを気に入り、仕官を勧めたが
  バテレン追放令の流れにより、全員それを
  断る
         ⇩
司祭になるため、天草とマカオのコレジヨ(大神
学校)で学び1608年(慶長13)マンショ、マルチ
ノと共に長崎で司祭に叔階
ーー41歳のとき
         ⇩
1614年(慶長19)徳川幕府のキリシタンの国外
追放令が出され、マルチノがマカオへ追放。
ジュリアンは厳しい弾圧の中潜伏しながら
信者を励まし続けるがついには島原半島の
最後の牧者として歩き続けた。
ーーミゲル棄教、マンショ病死、
ーー毎年天草、八代、柳川、小倉の教会を巡回
         ⇩
1632年小倉で捕縛。長崎西坂の丘にて穴吊りの
刑により64歳で殉教。亡骸は灰にされ、長崎湾
内に投棄された。
ーー「私はローマに赴いた中浦神父です」と
  自ら告白
 
最後の言葉「この大きな苦しみは神への愛の
ために」
2007年(平成19年)天正遣欧少年使節の一員で
初めて福者に列するーー
 
ドーム状の空間を生かした聖堂内は整然として
いて、天草四郎陣中旗や踏み絵マリア像が展示
されています。
 
ステンドグラスは島原半島の天正遣欧使節や
二十六聖人殉教、雲仙でのキリスタン弾圧など
苦難の歴史を物語っています。

四明荘

禅僧を招いて作庭されたという庭園でこんこんと
湧き出る島原湧水と日本建築のコラボレーション。
平成26年には登録有名文化財に指定されました。
 
明治後期に伊東元三氏が別邸として建築。
四方の眺望に優れていることから「四明荘」
と名付けられました。
 
特に庭園は絵画の一枚を切り取ったかのような情景
で訪れる人で列が途切れません。
座敷でお茶も頂けるおもてなしの心が嬉しいですね。
 
私は訪れるのを忘れていたため、公式サイトから
庭園の写真を引用しました(汗)
 
住所:長崎県島原市新町二丁目
TELL:0957-63-1121
開館時間:9時00分~18時00分
定休日:なし
入館料:大人¥310 小人¥150 未就学児無料

関連サイトhttps://www.city.shimabara.lg.jp/page943.html

しまばら湧水館

木造瓦葺平屋無料の休憩所。
館内では島原名物の和スイーツ”かんざらし
の手作り体験もできます。親子連れに人気で非常に賑わいます。
 
忍者屋敷みたいになっていて昭和の時代をより快適
な生活を送るための仕掛けが満載です。
スタッフの人に部屋の案内をしてもらって大いに楽
しめました。
 
押入れを閉めると仏壇が隠れ、瞬く間に客間に
変化し、一部屋儲けたかんじがします。
 
溝の長さが異なり、3枚の襖がずれることがなく
また、掃除もしやすく、見た目にも拘った機能美
と造形美を併せ持ちます。
 
こだわりの趣のある家具や置物は見応えがあり昔の
ガラスのゆがみなど一つ一つのこだわりを感じる家です。
 
住所:長崎県島原市新町2-122
TELL:0957-62-8102
開館時間:9時00分~17時00分
定休日:なし
入館料:無料

関連サイトhttp://www.mizuyashiki.com/

茶房しまばら水屋敷

店主の祖母の家だった明治時代の和洋折衷の屋敷
をリノベーションして民芸喫茶店として活用して
います。
 
2階を覗いてみるとたくさんの招き猫が置いてあります。
1階にも招き猫。福を呼ぶ縁起物はいくつあっても
良いものですね。
 
かんざらし」¥324
先にカウンターで注文して運んでもらう形式です。
池をぼーと眺めながら水飴を溶かしたような
あまーいかんざらしを楽しむ。実に風流です。
時間の流れがゆっくり流れているかのようです。
 
住所:長崎県島原市万町513
TELL:0957-62-8555
開館時間:11時00分~16時30分
定休日:不定休
駐車場:無

関連サイトhttps://www.city.shimabara.lg.jp/page943.html

総括ーーSummary

見てわかるとおり、島原城は大きくて綺麗な立派な
お城です。築城時の過酷な労働が島原の乱の引き金
になったとありますが、実際訪れてみて納得がいきました。
 
一揆の元凶である島原藩主松倉重政は島原城新築や
年貢の過重な取り立てといった圧政を敷きました。
それを受け継いだ松倉勝家も同じような
政治を行い江戸時代に大名として唯一の斬首に処さ
れる。
 
松倉重政は長崎ではキリシタンや年貢を収められ
ない農民たちに対する拷問や処刑などを行った
嫌われ者。
 
しかし、奈良では善政を敷き、平成には市民の手に
より顕彰碑が建立されています。
人とは一面性だけでは語ることはできませんが
それにしても人が変わったかのような豹変振り
です。
 
松倉重政1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの功績を認め
られ、一万石の大名として二見城に入城。
五條の地を統治したのはわずか8年と短期間でしたが
商人をまちに招き入れるため「諸役免許」といった
政策などで、商業と宿場の町、交通の要として
五條新町」の礎をつくりました。
 
徳川幕府のご機嫌取りに躍起になるあまり結果
人民の掌握をおろそかにしてしまいました。
 
島原のその後の徳川譜代による善政を見ると能力
が高いだけでは統治はできないことを痛感させられ
ました。
 
(次回)ーー九州で太宰府天満宮に次ぐ参詣者を誇る神社
タイトルとURLをコピーしました