【出島和蘭商館跡】in長崎9ーー教科書でお馴染み、扇形の長崎のへそをタイムスリップさるく

長崎ーーNagasaki

Column

◆長崎

・パイ巻カステラ
(株式会社まえだ)
しっとりとした長崎カステラをサクサクの
バター風味のパイ生地で包んだメディアで
よく紹介されるロングセラー。

・クルス
(長崎銘菓)
長崎の観光名所のパッケージ。形が十字架を
模した長崎らしいお土産。
ウエハース生地はパリッとして、中身のホワ
イトチョコは生姜風味の甘さと絶妙にマッチ。

・長崎カステラ
(カステラ本家福砂屋)
カステラとオランダケーキの詰合せセット。
伝統の製法を守り、手作りにこだわるカステラ
づくりの元祖。
甘すぎない生地に底のザラメがアクセントと
なってお茶受けにぴったりな一品。

 
長崎お土産。ハウステンボスなど試食できる場所
がたくさんあったので自分の舌で選び抜きました。
 
 
長崎ーー平和と祈りの都市 Nagasaki

出島ーーHistoric

江戸時代、鎖国によって閉ざされていた日本。
唯一、海外と繋がっていた長崎にあった出島
 
出島は17世紀から19世紀にかけ200年以上にわたり
日本とオランダの交流の拠点になってきました。
 
その間、武力行使は一切行われず、平和的に相互交
流が実現した世界的にも稀で非常に貴重な場所です。
 
旧出島神学校
入口は東側、西側、中央の3か所があります。
私は東側・明治ゲートから入場しました。
ーー通り道だったので(笑)
 
1875年(明治8)に創設された出島教会に隣接
して1883年(明治16)には英学校として建てられま
した。
 
日本で最初に設立されたキリスト教プロテスタント
神学校。居留地時代の出島の様子を伝える貴重な建物です。
 
出島の中に出島。縮尺は1/15のミニチュアです。
模型で見るといかにこんな狭い土地に押し込められ
て自由に外出不可で窮屈な思いをしていたことが
わかります。
 
出島の外周は高さ9尺(2.7m)の練塀が巡られて
いました。
 
積み石の間に石灰を混ぜた橙色の粘土で作った
アマカワ土は長崎地方特有のものを再現しています。
 
◆Pick up◆

出島

築造年:1636年(寛永13)
築造主:長崎の25人の有力者が出資して出島を築造
規模:扇型の人口島。面積3969坪
  (約1.5ヘクタール)=15,000㎡

◯建設費:銀200貫目(約4,000両) 現在の価値で約4億円

◯出島全体が1922年(大正11年)10月12日
「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定

◯扇形の理由は所説ありシーボルトの著書
「日本」によると長崎に作る島の形を徳川
家光に伺ったところ、扇を示し見本にするように言ったという説

 
なんとなくわかるーー出島物語

1634~1636年かけて貿易の独占とキリスト教
の布教の広まりを防止する目的で出島を築造。
ーー町の中で暮らしていたポルトガル人を収容
         ⇩
完成した翌年、島原・天草一揆が起こり、ポル
トガル船の来航は禁止される。
その後、平戸で貿易をしていたオランダ商船が
出島に移され幕末まで日蘭交流が続いた。
ーー日本とヨーロッパ間の唯一の貿易地となり
  近代化に必要な情報の発信地として出島は
  重要な場所となる。
         ⇩
1859年以降、通商条約により、長崎の貿易中心
地はグラバー園周辺の外国人居留地に移っていった。
ーー周囲の埋め立て等街づくりによりに失わ
  れた
ーー1992年(大正11)出島は”和蘭商館跡”として
  国指定史跡に選定
         ⇩
第二次世界大戦後1951年(昭和26)出島の復元
計画が動きだす。
2016年時点で16棟の19世紀初頭の町並みが
建ち並んだ。
ーーもともと町民により造られていたため民間
  の所有物でその公益化に長崎市は50年の
  歳月をかけ成功させた
 
2050年までに再び海に浮かぶ出島が完成する
ように取り組んでいる
ーーサクラダ・ファミリアとどっちが完成早いかなぁ~
 
彫刻「運命の船」
出島の過去と現在と未来の3つを表現しています。
過去の部分は木造船の船尾と波の形で船が大洋を
渡ってきたことを。現在の部分は出島のモニュメント。
 
未来は世界に波が打ち寄せる様子を象徴してい
ます。全体的に船の形をしていて出島の歴史を
象っています。
 
発掘調査によって解体された石材が江戸時代の
出島橋だったことが明らかになりました。
 
約半世紀の発掘調査により、オランダ商館員
の住居や蔵の礎石が見つかり、出島の建物復元
に役に立ちました。
 
江戸時代の建築物は、当時の場所に復元していて
19世紀初頭の町並みを再現されているため
タイムスリップしたような感覚を味わえます。
 
出島の歴史をシアターで紹介する総合案内所のある
”新石倉”は最初に見ておくべきスポットです。
 
ざっくりと出島の成り立ちから目的、現在に至る
までの経緯がわかります。
 
乙女部屋(おとなへや)ー
日本側の貿易事務や管理を一手に引き受けていた
詰所。
出島乙女は有力町人の中から奉行所が選任していま
した。また商館員の監視役でもあったそうです。
 
一番船船頭部屋
一番船の船長が出航する時期になるまで滞在する
部屋です。
日記などを参考に当時の家具調度類を再現しています。
ーーちなみに船員は船で暮らしました。
 
出島全体が博物館になっていて木造洋風建築一軒
一軒に展示物があります。出島の貿易や文化交流
など世界と繋がる出島を紹介しています。
 
カピタン部屋
オランダ商館長(カピタン)の住居。
両側から上れるエメラルドグリーンに塗られた階段
がおしゃれです。
 
1階では体験型の展示が数多くあります。
来客へのもてなす場として機能していて部屋数が
多くまた一部屋ごとに広い空間になっています。
 
クリスマスの宴会を再現したダイニングスペース
があり、豪華な食事や家具から商館長の出島滞在中
の様子がわかります。
 
畳にシャンデリア。和と洋が織り交ぜられちぐはぐ
な感じですがこれはこれでありな気がします。
 
大きなベランダからは出島の町並みが見られます。
出島内ではタイムスリップしてきた侍(スタッフ)
が歩いていて見所などを紹介してくれます。
 
料理部屋
オランダ商館員たちの食事を作る台所が再現
されています。
珍しい西洋料理は出島に訪れた人に振舞い大変
喜ばれたそうです。
 
南蛮船来航の波止場跡
1571年(元亀2)ポルトガル船と唐船2隻が初めて
長崎港に入港しました。
 
それを皮切りにポルトガル船は毎年のように来航し
長崎は国際貿易都市として急速に発展していきました。
当時この場所は岬の先端部分で波止場がありました。
 
1582年(天正10)天正少年使節の伊藤マンショ
千々和ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノが
ローマに向けて出港したのも1614年(慶長19)
高山右近がマニラに追放されたのもこの波止場から
でした。
 
出島は夜になるとライトアップされ無料開放して
います。
 
特に表門に架かる橋は必見!
滑らかな橋の形状によって光のラインが護岸
から出島に延びているかのようで出島以外の周りの
建物や障害物がないことも相まって幻想的に感じます。
 
出島表門橋は当時と同じ位置に新たな橋を2017年
に架橋しました。
国指定史跡後の出島を削り、基礎を作ることが出来
なかったため、片持方式を採用しています。
 
テコの原理でバランスをとったような最先端技術の
構造の橋は欧米の「ローラン・ネイ」の設計による
ものです。
 
旧長崎内外クラブ
グラバーの息子により長崎の外国人と日本人の社交
場として建てられました。
現在はレストランになっています。
 
透明のパネルに照らし合わせても江戸時代の建物
配置は遜色ありません。
 
歴史の教科書に出てくる有名な出島ですが、すでに
明治期に役割を果たし、長崎内からも人々の記憶
からも失われてゆく最中、第二次世界大戦が起こり
ました。
 
町の復興に手一杯のはずなのにそれから60年に渡る
プロジェクトによってまさに江戸時代の出島がここ
に蘇り、長崎の新観光地として注目を集めているとは
予想もつきません。
 
住所:長崎県長崎市出島町6番1号
TELL:095-821-7200
開場時間:8時00分~21時00分
定休日:年中無休
入場料:一般¥510 高校生¥200 小中学校¥100

関連サイトhttps://nagasakidejima.jp/

眼鏡橋ーーBridge

日本最古のアーチ造の石橋
17世紀キリスト教禁教の時代、長崎の町並みは拡大
され護岸を構築した際に架設された日本を代表する
名橋です。
 
◆Pick up◆

眼鏡橋 

築造年:1634年(寛永11)
架設者:興福寺 黙子如定禅師
構造:石橋二連アーチ橋
大きさ:長さ:22m 幅:3.65m 
    川面までの高さ:5.46m

日本最古のアーチ(琉球王国の天女橋を除く)

日本三名橋

◯1960年国の重要文化財に指定
 
川面に映った影が目にかける”メガネ”に見えること
からこの名前がついたと言われています。
 
中島橋に架かる石橋は単アーチであるのに対して
この眼鏡橋だけが二連アーチになっています。
また「日本橋」「錦帯橋」と並び日本三名橋に数えられます。
 

Column

日本三名橋

眼鏡橋】(長崎県長崎市魚の町)
 長崎市の中島川に架かる日本最古の石造り
 アーチ橋

日本橋】(東京都中央区)
 日本橋川に架かる国道の橋。日本の道路網の始点

錦帯橋】(山口県岩国市岩国)
 日本三奇橋にも数えられる組木の技術で造られ
 た5連の木造アーチ橋

 
昭和57年(1982)の長崎大水害で一部崩壊しました
が翌年復元されました。
 
水面にさざ波が立っていましたが、少し離れると
眼鏡に見えました。
ベンチが設置してあり風情を感じる景色で心地よい
風を感じながらさるくしたりのんびりできます。
 
袋町(現・栄町)に架かることから明治15年に”袋橋”
と命名されました。
この橋については記録がなく、築造年月、架設者
ともに不明。中島川の石造アーチ橋では2番目に
古い説もありますが確証はありません。
 
さらに中島川護岸の橋の下のハート形の石を見つ
けると愛が叶うパワースポットということで護岸
に下りて探す人がたくさんいます。

総括ーーSummary

なぜ「カステラ」は長崎を代表する銘菓になったのでしょう。
そのルーツを紐解いてみます。
 
原料は卵と小麦粉、砂糖(水飴)という至ってシンプル
なのにどうしてしっとり、ふっくらした食感が生ま
れるのでしょうか。
 
「カステラ」はスペインの”カスティーリャ王国”
で誕生した南蛮菓子といわれています。
ポルトガル語ではカスティーリャ王国の事を
「かすていら」と発音し、貿易商人やキリスト教
の宣教師が日本にもたらし、長崎から広まっていきました。
 
原型とされる南蛮菓子は不明でパンのような見た目
だと考えられています。
出島貿易が盛んな時代は砂糖がとても貴重でした。
そのため、海外に唯一開かれていた長崎には、大量
の砂糖が渡ってくるようになります。
 
明治に入ってからは良質の砂糖が渡り、製法も改良
され日本人好みのさらに甘く柔らかくしっとりした
食感となり今日まで作り続けられていました。
ちなみにザラメのザクザクとした食感が好みなら
製造日が新しいものを選ぶことをオススメします!
 
(次回)ーー語り継ぐ、負の遺産
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