下関ーー歴史のターニングポイント Shimonoseki
亀山八幡宮ーーShrine
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唐戸市場の反対側の小高い丘にある
亀山さんの愛称で親しまれている神社です。
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さすが世界一のふくの像。道路側から丸見えです。
見晴らしが良く、関門海峡を一望できます。
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開国を迫る諸外国への危機感により長州藩主
毛利元周公は他の藩に先駆け、外敵防衛策
を亀山八幡宮を始め、市街各地に砲台を築き
攘夷に備えました。
久坂玄瑞の指揮によるアメリカ商船砲撃の
砲弾が亀山砲台から発射され、馬関攘夷戦の
火ぶたが切られました。
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池にはふくーーではなく亀山の名に相応しく
かめが山のように甲羅干ししています。
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後に知ったのですが鳥居の亀山の山の
字に野球ボールが挟まっているらしく
野球の神様としてゲン担ぎで参拝に訪れる人が
後を絶ちません。
赤間神宮ーーShrine
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「ふく」についての歴史や豆知識の看板。
豊臣秀吉が禁止し、伊藤博文が廃止した経緯など
知らなかったことばかりです。
マンホールもふくだし、下関は本当にふく尽くしです。
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859年(貞観元年)阿弥陀寺として
祭神は幼くして入水した安徳天皇を祀っています。
まるで陸の竜宮城。
しかし、こんなデザインになったことは悲しき
理由があります。
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「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」
⇩
「海の底にも都がありますよ」という意味で
二位の尼の最後の歌に因み竜宮城を模した造り
になっています。
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第81代安徳天皇の陵墓
壇ノ浦を舞台にした合戦の際に御入水した
当時数え8歳の安徳天皇の御尊体を奉じて
御廟所が造営されました。
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安徳天皇の陵墓に隣接して平家一門の墓。
七盛塚とも呼ばれています。
壇ノ浦に散っていった平家一門を偲ぶ場所です。
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Column
耳なし芳一の話
まんが日本昔話では怪談話に分類されているお話ーー
阿弥陀寺(現・赤間神宮)に琵琶の名人であった
盲目の芳一がいた。歌にのせた平家物語が見事
だったため、平家の亡霊に魅入られた。
毎晩、平家の亡霊が誘いに来るもので阿弥陀寺
の和尚さんは心配して芳一に般若心境を体中に
書きつけた。亡霊が呼びに来たが見つけること
ができずに耳だけ浮いていることに気づき
せめてーーと耳を引きちがれ持っていかれた。
耳だけお経を書くことを忘れていたこと
で耳を無くし”耳なし芳一”と呼ばれるようになった。
その後、琵琶法師としての名声はより一層高まったというーー
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平家と源氏が戦った海を望むように建っている
パワースポットとして有名な”赤間神宮”
華やかな神宮の外観ですが、もしかしたら平家の
無念と安徳天皇の順風満帆の未来を奪われたこと
による想いが渦巻いていて、強い気が満ちているかもしれません。
住所:山口県下関市阿弥陀寺町4-1
TELL:083-231-4138
参拝時間:6時00分~18時00分
9時00分~17時00分(宝物館)
休日:年中無休
参拝料:無料
壇ノ浦古戦場ーーField
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巨大建造物はいつ見ても胸が高鳴ります。
美しく精錬されたものならなおさらです。
1日に4回流れの向きを変える関門海峡
狭いところでは両岸の幅ー700m
潮流の速度ー最高10ノット(時速18km)
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◆Pick up◆
関門橋
開通年:1973年(昭和48)
構造:全長ー1,068m 中央径長間ー712m
路面幅員ー26m 塔の高さー133.8m
橋梁形式:吊り橋
◯ケーブルの総延長:32,500㎞(地球の役3/4周に相当)
◯開通時点では東洋最長の橋。1983年開通の因島大橋が上回る。
◯山口県下関市と福岡県北九州市を結ぶ海上橋(高速道路)
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2019/03/DSC01567.jpg)
関門橋の袂に鎮座する源平合戦の様子を表した像。
対岸の巌流島にある宮本武蔵と佐々木小次郎と
対比しているかのように関門橋をバックにーー
船の錨を持った平知盛と八艘飛びを披露する
源義経の対峙が切迫感が伝わってきます。
なんとなくわかる壇ノ浦の戦い
この世の栄華を誇った平家一門
一族滅亡は家族愛からーー
⇩
全国規模で反平氏討伐が高まってきたころ
平家の大黒柱”平清盛”が病死してしまう。
ーー義経率いる源氏に一之谷、屋島と西へ
追い詰められていく
⇩
1185年(寿永4)3月24日、ついには壇ノ浦
まで追い込まれ雌雄を決する全面対決に発展する。
ーー平家の大将平知盛、源義経率いる源氏
⇩
当初は海戦が得意な平家が優勢。
潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢い
を盛り返した。
ーー義経が非戦闘員である船の漕ぎ手を狙う
ように命じ戦況が一変
⇩
敗北を察した知盛がその旨を一門に伝えると
三種の神器とともに安徳天皇を抱いた二位の尼が入水。
ーー源氏の三種の神器を取り返す目的は
水泡に帰す
⇩
知盛を筆頭に海峡に次々と身を投じ、平家一門は滅亡。
日本の政治の中心は貴族から武家政権へと移り変わる。
ーー落ち延びた平家の伝説が各地に伝わる
※この合戦において義経は船から船へと飛び移る
「八艘飛び」を魅せたと云われる。
※合戦の際に2000頭のイルカが現れ、平家は占いをした。
イルカの進む方向にいる軍が負ける予言したことで占いは当たる。
※三種の神器の中で持ち出したのは「草薙の剣」「八尺瓊勾玉」
の2つ。
の2つ。
「八咫鏡」は伊勢神宮に安置されたまま。
草薙の剣は海底に沈んでしまったが、八尺瓊勾玉は源氏に回収された。
平清盛についてはこちらを参照:
![](https://yashizaru.com/wp-content/uploads/2019/03/DSC01583.jpg)
ーみもすそ川公園ー
平和なこの世の中に似つかわしくないものが海岸
に配備されています。
ーー弾は込められていないので安心してください
長州砲は1864年(元治元年)幕末、開門海峡での
6次にわたる攘夷戦は長州藩と英・仏・蘭・米4カ国
連合艦隊との交戦をもって終戦しました。
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その際に下関海岸に装備された長州藩の青銅砲
は戦利品として外国に運び込まれ、国内から姿を
消しました。
終戦後、返還運動が続けられていましたが実現困難
なところ、フランス政府の好意によって貸与の形式
で里帰りに至りました。
創立20周年記念事業として現寸大かつ精密に模造
したものがこの地に安置しようとするのは鎖国時
に対外危機を感じていた日本の近代化を象徴して
いるとともに、明治政府の胎動に繋がっています。
寄り道ーーYORIMICHI
A little detour
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ー本陣 伊藤邸跡ー
伊藤家は鎌倉時代から続く下関屈指の名家で
この地に広大な邸宅を構えていました。
龍馬とお龍が下関で借りぐらしをしていた
寄宿先でもあります。
龍馬と伊藤家の出会いは薩長同盟実現に向け
下関に訪れていた際に当主である三太夫に
気に入られたことから始まります。
そして何回か滞在しているうちに同邸の
”自然堂”を借り入れました。
龍馬が朝帰りしてお龍がぶちぎれたなんて
エピソードも残っていて、下関は龍馬に
とって思い出深い場所となっています。
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ー立石稲荷神社ー
壇ノ浦古戦場へ向かう道中に横断歩道を渡った先
に鮮やかな鳥居が並んでいます。
ーー交通量が多いため、気を付けないといけません
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平家が伏見稲荷から持ってきた分霊をこの神社
に祀ったと云われています。
御神体はそのまま海の守護神となったそうです。
一斉にこちらを振り向いたかのような
狐の置物の顔が不気味です。
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赤間神宮の向かい側の駐車場に位置している像。
安徳天皇と二位の尼が海峡に身投げした様子
を表しています。
覚悟を決めた二位の尼の表情とこれから何がおこる
かわからないといった安徳天皇のあどけなさを表しています。
ーー二位の尼とは平清盛の正室です
安徳天皇からは祖母にあたります
ちなみに安徳天皇の生みの親ー平清盛の娘である
建礼門院徳子は髪の毛が熊手に引っ掛かり
源氏に助けられました。その後出家。
まさしく「おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し」
総括ーーSummary
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三種の神器は今でも見つかっていません。
関門海峡の海底で平家一門が守っています。
平家の落人伝説は日本各地に伝承されています。
いずれも人目につかないような山奥などにひっそり
と痕跡が残っている程度ですがーー
この世の栄華を極め、都に住んでいた平家が
合戦後、山間部に隠れ住んでいたと文字通り
都落ちという立場に陥ったことは諸行無常を感じずにはいられません。
今となっては確認することは極めて難しいですが
平家贔屓な私としては生き延びていてほしいと
願わずにはいられません。
というかそっちのほうがロマンがあります!
(次回)ーー夜の水族館、夜の下関は刺激がいっぱい!