長崎ーー平和と祈りの都市 Nagasaki
平和公園ーーPark
平和公園は大きく3つのゾーンに分けられています。
長崎市民に一般的な平和祈念像のある願いのゾーン
爆心地の碑がある祈りのゾーン。原爆資料館のある
学びのゾーン。
公園の入口にはエスカレータが設置しており
誰でも簡単にアクセスできるようになっています。
広島の原爆同様、被爆者は水をもとめて叫び絶命
しました。原爆の被害者の霊に水を捧げ、冥福を
祈り、世界恒久平和を祈念するため「平和の泉」
を建設しました。
平和の象徴であるハトの羽ばたきをかたどった噴水
の中心にある被爆した少女の言葉が刻まれた石碑
から「平和祈念像」が姿を現します。
世界恒久平和の実現を広く世に伝え、この惨禍を
繰り返させないために平和のシンボルとして
1955年(昭和30)8月の原爆10周年記念日に建立されました。
長崎出身の彫刻家”北村西望”作のこの像には様々な
想いが込められています。
上空を指す右手は”原爆の脅威”を
水平に伸びた左手は”世界平和”を
軽く閉じたまぶたは”原爆犠牲者の冥福”を
祈っているといわれています。
筋骨隆々な男性。間近で見るとかなり迫力がありま
す。柔和な顔は特定のモデルを指しているわけで
はなく戦争犠牲者の冥福を祈る、人間を超越した
神や仏の姿に例えられます。
高さ9.7m、台座の高さ3.9m
右手の人差し指には避雷針が設置されています。
園内は平和の泉の他に平和の鐘、世界各国から長崎
の平和公園に寄贈されたモニュメントが並んでいて
平和への強い思いを伝えています。
今では平和公園となって原爆の脅威と平和を後世
に伝えていますが、元々建っていたのは
「長崎刑務所浦上刑務所支所」でした。
爆心地より北へ約100mの地点に位置しており
爆心地に最も近い公共の建物です。
職員18名、官舎居住者35名、収容者81名
計134名が即死しました。
周囲を巡っていた鉄筋コンクリート塀は根元から
倒壊し、木造庁舎も煙突一本残して全焼しました。
ー原爆落下中心地地区・祈りのゾーンー
平和公園からほど近くにある爆心地公園に向かい
ます。
「原爆落下中心地公園」「原爆投下中心地公園」
「爆心地公園」「爆心公園」などと呼ばれています。
旧浦上天主堂の南側にあった遺壁です。原爆の罪の
象徴が公園内に移築・保管されたものです。
あまり目立たないのでスルーしがちですが長崎に
行くなら必ず立ち寄りましょう。足を止めて
じっくり見て原爆が落とされた事実と向き合ってみましょう。
黒御影石で造られた原爆落下中心碑のモニュ
メント。この上空で原爆が炸裂しました。
天を仰ぐーー
透き通った青空がどこまでも広がっています。
この青空が再び黒く染まらないために原爆は恐ろ
しい、戦争は怖い、この恐怖を後の世に伝えて行か
なくてはいけません。
住所:長崎県長崎市松山町9
TELL:095-829-1164
開園時間:年中無休
定休日:なし
入園料:無料
浦上天主堂ーーCathedral
明治維新後、弾圧に耐え続け信仰の自由を獲得
した浦上のキリスト教信者たちが建てた浦上
天主堂。
”東洋一の教会”と称されたロマネスク様式の
大聖堂で30年の歳月をかけて築かれました。
◆Pick up◆
浦上天主堂
築造年:1880年(明治13)
設計者:フランス人宣教師フレノー
構造:煉瓦造瓦葺
◯1945年(昭和20)原爆投下により破壊されたが
1959年(昭和34)再建
◯信徒12,000人のうち、8,500人が爆死したと推定
◯日本で一番、信徒数が多い小教区
爆心地から北東へ500mの距離にある浦上天主堂
は小高い丘に位置しています。
1945年(昭和20)8月9日午前11時2分の原子爆弾の
炸裂により崩壊。ミサ中の主任司祭の西田三郎
神父らと信徒20数人が犠牲となりました。原型を
留めぬまでに破壊され、後には石垣だけが残りました。
明治4年、博多より萩に移送させられた長崎浦上
切支丹教徒260名は鉄砲責、寒晒などと呼ばれる
拷問方法が用いられました。
その時、座らせられていた石が拷問石と呼ばれていました。
その中で最も有名な拷問が「寒ざらしのツル」の話
です。雪の中18日間の拷問を受けましたが、つい
に彼女の信仰心を改心させることはできませんでした。
現在入口両脇には「悲しみの聖母像」「信徒聖
ヨハネ像」マリア像小聖堂には瓦礫から奇跡的
に発見された「被爆マリア像」が安置されてい
ます。
ーー堂内は撮影禁止
北側の鐘楼は天主堂が破壊された際に現在の位置
まで崩れ落ちました。
現在では原爆により破壊された当時のまま
旧浦上天主堂の被害を物語る唯一の遺構となって
います。
熱線によって黒焦げになったり、頭部など一部破損
した像が天主堂の壁際に並べられています。
生き残った信徒たちの手で木造の仮聖堂が建設され
1959年(昭和34)現在地に鉄筋コンクリート造の聖堂
が再建されました。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が
世界遺産に登録されたとき、戦後に再建された
鉄筋コンクリートの建物という理由で候補から
外されました。
再建された天主堂からはもう一方の原爆の爆風に
耐えたアンジェラスの鐘が1日3回響きます。
住所:長崎県長崎市本尾町1-79
TELL:095-844-1777
開館時間:9時00分~17時00分
定休日:なし
拝観料:無料(献金箱に寄付をお願いします)
長崎原爆資料館ーーMuseum
ー長崎原爆資料館地区・学びのゾーンー
被爆直後の長崎の街の惨状。原爆の傷跡が多く
残ったたくさんの資料が核兵器の脅威や戦争の
悲惨さ、平和の尊さを訴えています。
さるくちゃん発見!長崎市の観光地には高確率で
遭遇している気がします。
入口から多くの千羽鶴に出迎えられあの日へと
遡っていきますーー
壁に飾られている「連鶴」は幅15㎝、長さ150m
の一枚紙で折られています。
爆心地より約800mの坂本町山王神社近くの民家に
あったもので時計の針は爆発の時刻11時2分を示し
たまま時間が凍結しています。
三方を山に囲まれ、ポルトガル船の来航にから歴史
を刻んできた坂の街”長崎”に1945年(昭和20)
8月9日あの夏の1日が訪れます。
爆心地から800m~1,200mの範囲内に位置していた
被爆直後の長崎の惨状を再現し、視覚で原爆の破壊
力や恐ろしさを伝える常設展示です。
被爆した浦上天主堂の側壁は聖堂の南側残骸を
再現造成したものです。
聖像は黒く変色し、石柱は爆風によりずれが生じて
います。
ーー最初見たときは天国の門かと思いました
爆心地より約600mの被爆焼失した民家より発見
された信者のロザリオ。
ガラス製のロザリオは凄まじい熱線と温度により
アメのようにドロドロになっています。
模型上で噴き上げるキノコ雲。
放射線の広がりをモニターで表しています。
三方を山に囲まれているため幸か不幸か広島ほどの
甚大な被害は見受けられませんでした。
長崎に投下された原子爆弾による被害状況
1945年(昭和20)8月9日
➡ 長崎市人口:約240,000人
原子爆弾による被害者数
➡ 死 者:73,884人
負傷者:74,909人
(1945年12月末までに推定)
参考までにーー
広島に投下された原子爆弾による被害状況
1945年(昭和20)8月6日
➡ 広島市人口:約350,000人(推定)
原子爆弾による被害者数
➡ 死 者:140,000人(推定)
負傷者: 79,000人(推定)
ーー1945年終わりまで
参照:【広島平和記念公園】in広島4ーー日本人のみならず外国人にも訪れてほしい世界にふたつしかない場所ー前編
長崎型の原爆(ファットマン)
”太っちょ”という意味で長さ3.25m、直径1.52m
重さ、4.5t、爆発力ーーTNT火薬21kt相当
プルトニウムを内側に爆縮して核分裂を起こしま
した。内訳は、爆風が約50%、熱線が約35%
放射線が約15%
これらが複雑にからみあってナガサキの街に大きな
被害を引き起こしたと説明文に書かれています。
ーープルトニウムの威力はヒロシマのウラン型の
1.5倍に相当します
爆心地から200m以内の被爆瓦。
熱線の直射を受けた表面は沸騰して泡立っていま
す。広島でも見られた被爆瓦特有の発泡状が確認
できます。
実験の結果、4秒間、1,800度の高熱にさらすと同じ
現象が現れるようです。
爆心地付近で発見。手の骨とガラスが高熱により
くっついています。
熱線による爆心地付近の地表温度は3,000~4,000度
1,500度程度で鉄が溶ける事から想像を絶します。
生々しくしばらく茫然と眺めていました。
核兵器は1945年(昭和20)以来、世界各地で行われた
核実験は2,000回を超えています。
それを地球儀に表示しており、現代の核兵器に関す
る情報を解説しています。
広島原爆資料館同様に日本人より海外の方を多く
見かけました。
全世界から寄贈された平和のシンボルである
折り鶴の奉納の数から平和を願う思いが長崎、広島
はじめ、世界中の人々から捧げられています。
住所:長崎県長崎市平野町7-8
TELL:095-844-1231
開館時間:8時30分~17時30分
休館日:12月29日~31日
入館料:大人¥200 小中校生¥100
関連サイト:https://nabmuseum.jp/
戦利品ーーSENRIHIN
Booty
平和の象徴、ハトを象った金色のエンブレム。
もらった折り鶴と一緒に撮影です。
総括ーーSummary
16世紀後半より、キリシタン布教の地として歴史を
持つ浦上地区。
1587年のキリシタン禁令にはじまる長い迫害の歴史
に耐え1873年(明治6)禁制の解かれる日を迎えます。
信仰の灯を守り通した信徒たちは20年の歳月をかけ
浦上天主堂を完成させました。
ーーすなわち、市のものではありません
度重なる偶然に偶然を重ね投下位置を長崎に決定。
原子爆弾により、ミサ中の神父、信徒数十人が犠牲
となり、わずかな堂壁を残しただけで無残に崩れ
落ちました。
ーーこの世には神も仏もいないのかと思わずには
いられません
第2の「原爆ドーム」になりえたであろう浦上天主堂
現存していたら間違いなく世界遺産当確だったと
悔やむ声は少なくはありませんでした。
なぜ保存ではなく撤去し、新しい天主堂を再建したのかーー
その真相は戦後の日米間関係や市と教会の関係に
あります。世界最大宗教であり、アメリカ国内で
一番信徒数の多いキリスト教。
同じ宗教同士、その上に原爆を落とし残骸が残る
とあっては原爆の正当性を主張するアメリカに
とっては障害物でしかありません。
さらに教会側は人間の仕業であり、神の意向に背く
行為として1日も早く神に召された犠牲者に祈りを
捧げるよう務める必要があるといいます。
禁教時代から歴史のある土地に再建するためには
撤去はやむを得ない結論となり、政治や宗教様々
な思惑によって罪の象徴である浦上天主堂を残す
ことが叶いませんでした。
原爆ドームをみたときのあの感動というか、何物
にも言い難いものはこみ上げてきませんでした。
同じ爆心地なのにこんなにも印象が変わるのかと
考えずにはいられません。
戦争を体験した人は時と共に減少し、人々の記憶
からも薄まっていく。
世界最後の原爆投下位置にも関わらず広島に比べ
目立たないことは、やはり原爆ドームのような
最大の被爆モニュメントや遺構やモノが遺って
いないことが一因しているような気がします。
(次回)ーー今は無人島。昔は世界No.1の人口密度