【名護屋城跡】in佐賀8ーー日本百名城。時代にわすれられ、400年振りに日の目を浴びた幻の巨大城郭都市

佐賀ーーSaga
唐津ーー白砂清松に残る伝説の舞台 Karatsu
館内は名護屋城の資料や展示だけでなく
名護屋城以前の原始や古代の歴史や日本と韓国の
交流に関する情報もあり、無料なのが不思議な
くらいのボリュームです。
 
名護屋城跡へ行く前に予備知識として
訪れることをオススメします。
ーー駐車場も完備してあるため名護屋城跡
  巡りの拠点としてうってつけです
 
名護屋城と城下町。縮尺:1/300
この模型は「肥前名護屋城図屏風」を復元・製作
したものです。
 
模型にするとわかりやすく、大阪城に次ぐ規模と
語り継がれていることに納得しました。
 
「朝鮮国王贈豊太閤書(複製)」
1590年(天正18)に来日した朝鮮国使節が持参した
朝鮮国王・李昖の国書。
 
豊臣秀吉が日本を平定したことを記す文面となって
いますが、仲介役の宗氏によって秀吉の意向に沿う
ように内容を改ざんした偽造国書になってます。
 
朝鮮出兵の際に大陸に渡った船の模型。
豪華で当時の最新鋭の装備であることが
見て取れます。
 
「黒田家譜」
朝鮮国や中国の歴史書などを利用しながら
主君や家臣の奮闘が詳細に描かれています。
 
孝高(官兵衛)が地割り(全体設計)を長政が
総奉行を担当した名護屋城の普請について
多く記しています。
 
住所:佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3
TELL:0955-82-4905
営業時間:9時00分~17時00分(L.O23時30分)
休業日:月曜日 12月29日~31日
駐車場:有
入館料:無料(特別企画展は有料)

関連サイトhttps://saga-museum.jp/nagoya/

名護屋城跡ーーCastle ruins

幻の巨大都市・名護屋
佐賀県鎮西町の高台に巨大な城跡が残されて
います。
 
1592年(天正20)天下統一した豊臣秀吉が大陸(明国)
に向け軍事拠点として築かれた肥前名護屋城です。
 
◆Pick up◆

名護屋城 

築造年:1592年(天正20)
築造主:豊臣秀吉
構造:城郭ー梯郭式平山城 天守ー望楼型5重
   7階(肥前名護屋城図屏風)

規模:敷地面積ー17万㎡ = 3.6個分(東京ドーム)

◯大阪城に次ぐ規模

◯召集人数ー総勢20万人(全国の大名・武士・百姓・商人)

◯名護屋城跡と23箇所の陣屋が国の特別史跡
 に指定
 
京の都に匹敵する巨大都市が忽然と誕生しました。
名護屋城の周囲には130以上の諸大名の陣屋が各所
に配置されており、貴重な歴史遺産と玄海国定公園
の自然景観に恵まれた地を歴史探訪できます。
 
当時最高の文化を誇った陣屋が約400年を経て残さ
れた石垣が陣跡になっている状況を確認できます。
6つのモデルコースが設けられ、当時の雰囲気を
感じながらコース上の見所も併せてゆっくりと散策
を楽しめます。
 
なんとなくわかるーー朝鮮出兵

文禄・慶長の役とも呼ばれ豊臣秀吉が
1592(文禄元)~1598年(慶長3)にかけて
中国の”明”を目指し、朝鮮半島に挑んだ戦争。
ーー当時の日本では「唐入り」または
 「高麗陣」と呼ばれていた
  朝鮮側では「壬辰・丁酉の倭乱」と呼んだ
         
対馬藩、宗義智(そうよしとし)が朝鮮と交流を
持っていたことから対朝鮮交渉を命じた。
使節団が来日し、聚楽第で秀吉に謁見する。
明を支配する際に朝鮮へ先導役を要求する
ーー秀吉は朝鮮国王が恭順の意を示したものと
  勘違いしていた。
            ⇩
1591年(天正19)明征服のための拠点に肥前
名護屋に城郭の築城を開始。
同時に朝鮮との交渉を図ったが難航を極め
最終的に交渉は決裂。
            ⇩
1592年(文禄元年)4月12日ーー文禄の役
釜山(プサン)上陸。一番隊の宗義智と
小西行長は700艘で釜山を鎮圧。
ーー秀吉が掲げた方針として人や物資の略奪
  を禁止していたが、現地では乱取りが横行
            ⇩
5月3日首都ハンソン(現:ソウル)
6月には平壌(ピョンヤン)を破竹の勢いで攻め
落とすが日本の快進撃はここまでーー
ーー明の援軍や英雄李舜臣の登場により制海権
  を奪われる
            ⇩
1597年(慶長2)1月ーー慶長の役
戦線が膠着したため交渉に切り替えるが、明と
の講和条件が折り合わず、日本は14万の大軍
を朝鮮に派遣した。
ーー明の使者が大阪城で豊臣秀吉に謁見。国書
  の内容が望むものじゃなかったため、朝鮮
  征服のために出兵
            ⇩
平壌城に立てこもる日本軍は明・朝鮮の連合軍
に総攻撃され、撤退を決意する。
ーー慣れない土地での長期に渡る戦闘や現地民
  からの支持を得られずに四面楚歌状態
            ⇩
豊臣秀吉死去で日本軍が撤退して戦争終結。
日本側が講和しなかったため双方が勝利を
主張。
 
この戦争によって朝鮮半島は中国にとって
防衛上重要な地域であることが認識されました。
 
それにより、明治時代に日本が朝鮮に進攻したとき
”清”は自国の安全のために戦い、日清戦争に発展
していきました。
 
名護屋城の往時の姿を描いた現存するものの一つ
に「肥前名護屋城図屏風」があります。
 
名護屋城を中心として周辺の陣跡や城下町を綿密
に記されており、曲輪の位置や形状など現存する
城跡と整合する部分が多く他の資料と比べても
信憑性が得に高いです。
 
木下延俊陣跡
博物館の裏手の高台テラスから向かいます。
樹木に覆われていて天然の保存整備になっています。
ーー陣主の木下延俊(のぶとし)は豊臣秀吉の正室
  おねの甥にあたります。
 
遺構は発掘調査した状態をそのまま保存され一部
公開していて見学できるようになっています。
 
大手口
名護屋城の正面入口。
ここから南に向かって唐津に通じる”太閤道”
と呼ばれる道が延びています。
 
掘立柱跡が見つかり、石垣から櫓があった
ことがわかりました。
 
遊撃丸
明国の講和使節が滞在し、もてなしを受けた曲輪
といわれています。
 
石垣は自然石を半分に割り、割った面を表面に見
せる”打ち込みはぎ”の石積。また金箔瓦が出土
しています。
 
三ノ丸
本丸より一段低いところに位置し、東西68m
南北124mからなり、大手口から本丸に通じる重要
な曲輪です。
 
本丸周辺を警固する侍が詰めていた場所と考えられ
ています。また、城内の高台では唯一の井戸跡が
残っています。
 
二ノ丸
名護屋城の時代のものと思わしき掘立柱建物跡が
発見されました。建物は3棟で東西方向に細長い
長屋状の建物であったことがわかります。
 
簡素な建物であることから、築城時の仮説的な建物
であった可能性が高いです。
 
搦手口
名護屋城に5つある虎口のひとつ。
搦手とは城の裏側という意味で、表側の大手口
と対になる言葉です。
 
城の守りを固めるために通路を屈折させた
典型的な食い違い虎口の形状をしています。 
また、溝底に平瓦を並べ、石積みで側壁をつくった
瓦敷排水溝跡が発掘調査で見つかりました。
 
馬場
本丸の南側にあたり、二ノ丸から三ノ丸に至る重要
な通路と考えられています。
 
長さ100m、幅15mと細長く、本丸との比高差は
12mあり、築城時の高石垣が保存状態良く残っ
ていて馬場の通路途中に設けられた櫓跡も見つ
かっています。
 
本丸
本丸には格式高い檜皮葺風の御殿、その右側には
瓦葺の五層の天守が建てられていました。
 
天守閣のある本丸を中心に、二の丸・三の丸
・山里丸などを要所に配置して建個に構えています。
門は大手口ほか5か所あり、北面には鯱鉾といわれる
堀がわたしてあります。
 
本丸大手は三ノ丸と本丸を結ぶ通路。大きな城門
の礎石やL型に曲がった石段、石垣の上へあがる
広い石段などの遺構や門や櫓のものと思われる
遺物が見つかりました。
 
「本丸南西隅石垣」
復元すると10m以上の高さになっています。
自然破壊だけではなく、人為的に破壊したと推定
されるため、修理した石垣全面に覆土を行い破壊
当時の状況をそのまま復元しています。
 
天守台
名護屋城のシンボルである天守閣が建っていた
天守台。「肥前名護屋城図屏風」には五層七階
建ての壮麗な天守が描かれており、高さは25
~30mであったと推定されています。
 
天守は江戸時代初期に唐津藩に領有されるのに伴い
破却を受け、石垣までも破壊されたといいます。
 
江戸時代の島原の乱の二の舞など一揆による
立て篭もりを防ぐ目的で人為的に破却されています
が現在では部分的に復元保存されています。
 
また、天守台周辺では金箔を貼った軒丸瓦・鯱瓦
などが多数発見されており、天守は軒先を飾った
豪壮な建物であったと推定されます。
 
天守台の石垣は、ほとんどが矢(クサビ)で割った面
を表に見せる割石積みです。城内では自然石をその
まま積み上げる野面積みが多く見られます。
 
割石積みは天守台のほか、本丸旧石垣や遊撃丸など
限定された場所でしか用いられません。
当時としては最先端の技術が使われていました。
 
大手口前井戸
城内には6箇所の井戸が見つかっています。
深さは約1.6mと浅く、朝鮮通貨や石臼。曲げ物など
が見つかり、当時の生活を探る手掛かりとなりました。
 
山里丸
秀吉のプライベートな空間であったとされる
山里丸。
瓦葺風屋根の茶室や能舞台があったりと名護屋城
の中でも優雅な生活ぶりが見えます。
 
前田利家陣跡
道の駅「桃山天下市」近くの森に築かれている
豊臣政権の五大老の1人ーー前田利家の陣跡
8,000人の兵を率いて在陣しました。
 
名護屋城から500mしか離れていないことからも
秀吉からの信頼厚いことが伝わってきます。
明国使節団を接待した館があったとされています。
 
徳川家康陣跡
豊臣政権の五大老の一人ーー徳川家康の陣跡
15,000人の兵を率いて”竹の丸”と呼ばれるこの地
に着陣しました。
 
1985年(昭和60)名護屋保育所の改築に伴い
発掘調査が行われ、石垣や堀が確認されました。
 
家康はこの本陣の他に海を隔てた東側対岸に別陣
も構え、名護屋城の守りにあたったといわれています。
 
今回予備知識の少なさから実践できませんでしたが
車で陸から、呼子の船で海から名護屋城の歴史探訪
を自然にふれあいながらできたら最高です。
 
天下人秀吉が生涯最後に夢を思い描いた地に足を
踏み入れ想いを馳せてみてはどうですかーー

総括ーーSummary

国内では朝鮮出兵として広く周知されていて
歴史の授業で教わりますが、発端など背景を
詳しく調べる人は少ないと思います。
 
朝鮮全土に影響をもたらし、多大な混乱を招きました。
朝鮮王朝第14代国王宣祖は首都を追われました。
日本軍16万に対して朝鮮・明連合軍25万人、天下
分け目の関ケ原でさえ東軍7万、西軍8万と規模が
ケタ違いです。
 
これは立派な侵略戦争であったことがわかります。
その後、朝鮮の国力は衰退し復興に長い年月を要しました。
ーー日本との国交回復は江戸時代になってから
  でした
 
しかし、秀吉の身勝手な行動で開戦されたわけ
ではないことを念頭に入れてほしいのです。
この時、天下統一していたのが織田信長でも徳川
家康でも同じことをしていたでしょう。
 
なぜならこの時代、世界情勢があまりにも混沌と
していていつ、明が欧米列強に征服されるかと
戦々恐々としていました。
 
諸大名の情報ネットワークは五大老の統制の下
ピカイチで、国内全体で危機を感じていました。
そのため、渋々秀吉の命で出兵したわけではなく
戦時中の日本と同じく、国を守るために命懸けで
戦いました。
 
明を取られるということは属国である朝鮮も取ら
れるということ。朝鮮から大軍が押し寄せてきた
らいくら当時最強レベルの軍事力を誇った日本で
も為す術なしです。
 
黙って征服されるくらいならと秀吉は欧米列強に
対し先に明を征服するという強気で大胆な一手を
打ちました。
 
日本の国力を世界に見せつけた結果、欧米列強は
おいそれと明に手を出せなくなり、加えて自国の
防衛により侵略に手が回らなくなりました。
 
天下を取るということは一国をまとめること。
戦乱の世を終わらせること。そしてーー太平の世を築くこと。
晩年になっても耄碌しても豊臣秀吉の眼光は
鋭く衰えることを知りませんでした。
 
(次回)ーー全てが磁器で出来ている!?磁器の世界
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