【吉野ケ里遺跡】in佐賀1ーー争いの歴史は弥生時代から。古代最大のミステリー、蘇る邪馬台国

佐賀ーーSaga
吉野ケ里町ーー邪馬台国のロマン Yoshinogari

吉野ケ里遺跡ーーRemains

佐賀観光一発目に紹介するのは教科書に載っている
吉野ケ里遺跡」現在は”国営公園吉野ケ里遺跡公園”
になっていてその一部を見学可能です。
 
吉野ケ里町から神埼市まで跨る大規模な遺跡で
紀元前5世紀~紀元3世紀頃まで栄えました。
 
稲作を中心とした”クニ”の全貌や
700年間続いた弥生時代がどういう時代だったかを
解き明かす上で大変貴重な資料や歴史が詰まっています。
 
◆Pick up◆

吉野ケ里遺跡

歴史:弥生時代
規模:約117ha=1.17k㎡=福岡ドーム20個分

◯日本100名城

◯1990年(平成2)国史跡

◯1991年(平成3)国特別史跡
 
東口、西口、北口と3つ入場口がありますが遺跡
エリアへのアクセスが容易な東口に車を停める
と便利です。
 
歴史公園センター内にはレストランやお土産品が
並んでいますが荷物になるので後でゆっくり見ましょう。
ーーちなみに園内は日陰が少ないため、飲料水を
  ここで買っておくべきです。
 
天の浮橋からはムラが少し見えます。
遠くからでも茅葺櫓が望めるため、気持ちが
高揚していきます。
 
橋の上にはミストシャワーが設置しているので
熱中症対策が行われています。
 
環濠入口広場
橋の先には環濠集落の入口が立っています。
その横には中世の城郭のように土塁や堀
逆茂木(乱杭)が構えられています。
ーー日本100名城に数えられるのも納得です
 
この時代、集落が多く作られたことで土地や米
などの奪い合いの争いが起こるようになりました。
 
集落の入口を厳重に守るためのバリケードです。
ーー牧歌的な生活だけではなく血みどろの戦いの
  始まりであったことがわかります
 
南内郭
2つある中心区域の1つ。
堀と柵で厳重に守られていることから特別な空間
として指導者が住んでいたと考えられています。
 
まさに教科書通りの光景で感動すら覚えます。
戦国時代の城郭の原型がこの時代に完成したように
思えます。
 
背の高い建物は物見櫓的な役割を果たしていて
四方に盾が置かれ兵士が見張っていました。
南内郭の様子や公園全体が見渡せます。
 
貯蔵倉や市場があり、物資や人が入り乱れ
活気あふれていたことが予想されます。
遠くにある近代的な建物は出来る限り見ないように
して古代の雰囲気を感じます。
 
集落内の竪穴式住居には自由に入れます。
人形が置いてあり、家々の役割分担が紹介されて
いて当時の生活の様子を覗くことができます。
 
内部は意外と広く、風通りもあるので
夏の暑い時期には快適に感じます。
 
一際大きく、バリケードに囲まれている「王の家」
装飾品や王(権力者)の力を示す品々が置いてあります。
 
吉野ケ里遺跡展示室
南内郭近くに発掘調査の様子や
出土品や遺物が展示されています。
 
甕棺(かめかん)は成人を埋葬する大型の墓で弥生時代
の北九州を中心に広がった独特な埋葬方法です。
 
吉野ケ里内で3100基以上の甕棺が発掘され、350体
以上の人骨が出土しています。密閉して埋葬される
ため多くの副葬品が残り、貴重な情報を語ってくれます。
 
★TOPICS★

弥生人について
1)弥生人とは
 弥生時代に中国大陸から渡ってきた渡来人
 がルーツ。縄文人の中で稲作などの技術を
 確立した日本列島の人々。
2)弥生人の身体的特徴
 面長でのっぺりしている。塩顔とも呼ばれる。
 平均身長:男性163㎝ 女性150㎝
 ーー縄文人の特徴と正反対
3)弥生人の性格
 協調性や計画性を重視する。
 統率するリーダーがいればそれに従う。 
 A型が多い。
 ーー今の日本人の特徴に当てはまる
4)稲作のはじまり
 紀元前4世紀頃に朝鮮半島から九州北部に
 伝わる。吉野ヶ里遺跡からは水田跡は発見
 されていませんが米作りの道具が見つかった
 ことから、稲作を行っていたことがわかった。

 

 

北内郭
最も北側に位置し、吉野ケ里のまつりごとの
中心であったと考えられています。入口以外が木
の板が張り巡らされより堅固になっています。
 
建物も高床式が多くなり、いきなり生活水準
が上がったように感じます。
ーーちゃんとネズミ返しも確認できます
 
中央にある巨大な主祭殿は吉野ケ里内で最も神聖な
場所とされていて政治的な話し合いや儀式が行われ
ていたと考えられています。
 
物見櫓ひとつとっても南内郭と異なる点がありま
す。簡素ではなく頑丈な造りなのでちょっとや
そっとの襲撃ではびくともしなそうです。
 
南内郭より防御面や建築技術が優れている点から
北内郭は宗教的な重要な場所であったと考えられ
ます。
 
甕棺墓列
地面がモコッとした場所全てお墓になります。
長さ600mにわたって2列間隔で埋葬されています。
比較的身分の高い人が眠っていたと考えられます。
ーータイムカプセルみたいですね
 
埋葬方法はーー地面から深さ2mほど穴を掘り
半分にした甕に遺体を納め、もう半分にした甕で
蓋をし、合わせ目には粘土で目張りをします。
上から土まんじゅうで目印をしたと考えられています。
 
北墳丘墓
北墳丘墓の隣に祖先の宿る柱があります。祈りや
お供えを捧げる祠堂もあり、祖先の霊を祀る祭壇
として信仰を集めていました。
 
約2100年前の歴代の王が葬られた墓地。
古墳のような中からは14基の甕棺が見つかり、ガラ
ス製の管玉や青銅の剣など貴重な副葬品が納めら
れていました。
 
北内郭の近くにあることからも人々は昔から祖先を
大切に祀る風潮があったことがわかります。
 
北にある主祭殿から祠堂を通り一直線に丘墓に
届き、冬至と夏至を結ぶ線上に位置しています。
この頃からこんな高度な風習があったことにびっくりです!
 
大芝生広場
長大な甕棺墓列を抜けるとだだっ広い広場が
見えます。
 
元気な子供の声が聞こえてきて急に現実に
戻された感じがしました。そしてアドレナリンが
切れて疲れがどっと襲ってきました(汗)
 
弥生時代に近い木など自然を植生した古代の森
ゾーン歩いて古代植物館に向かいます。
 
ここでは植物展示のほか、組ひもづくりや化石割り
体験など弥生暮らし館とは異なる体験ができます。
 
倉と市
南内郭にほど近く、倉庫群が建ち並び、市が開催
されていました。また、市を管理する市楼などが
見つかっています。
 
吉野ケ里を囲む外堀に降りることができる場所
があったので行ってみました。大きな堀の掘った
土を外側に高め土塁を築きます。
 
その上には木の柵を設け、城柵としていました。
このことから「城=土から成る」という語源が
生まれたとされています。
ーーこちらは小規模ですが真田丸の掘を彷彿させます。
 
弥生の大野
アスレチックや野外炊事などレクリエーション
ができるオープンスペース。たくさんの人で
賑わっています。
 
西口に位置するので遺跡目当てではなかったら
こちらから入場したほうがスムーズです。
 
暑さの限界を迎えたのでかき氷でクールダウン。
キーンとなるほど冷たく、夏はやっぱりかき氷です。
 
髪が短くても「ひみこさまー!」ができます。
露天も開かれているのでひと休みにはちょうど良い場所です。
 
弥生くらし館
ガイダンス施設や体験工房が建物内にあります。
火おこし、勾玉づくりなど各種体験ができるので
当時の貴重な生活を体験できます。
 
一周して終了です。約3時間20分掛かりました。
完走した感想ですが福岡ドーム20個分は伊達では
ないです。飲み物を買っておけばよかったと死ぬ
ほど後悔したのは一度や二度ではありません。
 
バスも巡回しているので無理せずバスに乗った方が
賢い周り方だと思います。
 
住所:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
TELL:0952-55-9333(代表TEL)
営業時間:9時00分~17時00分
入場料:大人¥460(15歳以上) 中学生以下は無料

関連サイトhttp://www.yoshinogari.jp/

総括ーーSummary

「邪馬台国の発見かーー」
1986年から発掘調査を進め、多数の竪穴式住居
周囲には堀が巡らせ、環濠や物見櫓を設置した
ことがわかりました。
 
さらに大量の人骨を納めた甕棺や王墓などが
出土し、最大級の環濠集落としてこの地で
”クニ”を形成されていた跡が見つかりました。
 
北内郭に神からの信託を巫女が受ける聖域がある
ことから邪馬台国の女王”卑弥呼”を彷彿させます。
 
しかし、邪馬台国があったといわれる候補地は
複数あれども、決定的な証拠が見つからないため
未だ解明はされていません。
 
「邪馬台国はどこにあったのかーー」
この答えは誰にも分りません。

日本には記録が残っておらず、中国の魏志倭人伝
にちょこっと邪馬台国という記述があるだけです。
あなたの心の中にあるのですーーなんて
 
ふわっとしたのはいらないですね(汗)
「邪馬台国はどこにある」
「そもそも存在していたのかーー」
その解を生きている間に知りたいと思うのは
全人類共通の願いですね。
 
(次回)ーー明治維新は佐賀によって成功した!
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