【佐賀城本丸歴史館】in佐賀3ーー先憂後楽を実現するために世界を見ていた七賢人ー後編

佐賀ーーSaga
佐賀ーーその時、佐賀は世界を見ていた Saga
佐賀藩主鍋島直正の業績を讃え、それを後世
に伝えるために銅像を直正公生誕100年を
記念して大正2年に佐賀県松原の地に建立
されました。
 
一時、大戦の際に国の金属供出令に
よって姿を消しましたがーー
平成26年、生誕200年に民間主導で
銅像再建委員会が立ちあがり再建が
実現しました。
 
佐賀城鯱の門及び続櫓(重要文化財)ー
1838年(天保9)に建設。屋根の両端に青銅製
の鯱が載っていることから”鯱の門”と呼ばれ
ています。
 
構造は二重二階の櫓門に一重二階の続櫓を組合わせ。
屋根は本瓦葺、入母屋造。
1874年(明治7)佐賀の乱のときの弾痕が残っており
戦闘の激しさを物語っています。
 
◆Pick up◆

佐賀城 別名:沈み城、亀甲城

築城年: 1602年(慶長7年)
築城主肥前国藩祖ー鍋島直茂、代藩主ー鍋島勝茂
構造:輪郭梯郭複合式平城

◯かつては何重にも外堀を巡らし、攻められた際
 は水路を遮断し天守閣など主要部以外を水没
 させ城下を湖水化させる仕組み

◯平城のため、城内が見えないように土塁に樹木
 が植えられ、樹木の中に沈み込んで見えること
 から沈み城と呼ばれる。

◯規模として小倉城かそれよりも少し大きいの
 ではないかと最近の調査で推測されている

 
天守台
1607年(慶長12)、距離31m×27m
高さ9m、4層5階の天守閣が築かれました。
 
1726年(享保11)に本丸、二の丸、三の丸
天守閣と焼失し現在は更地になっていて
見晴らしが良いです。
 
佐賀城本丸歴史館
城の中枢部に位置していた本丸御殿。
現在は鍋島直正公が再建した本丸御殿の一部
を忠実に復元した歴史博物館になっています。
延べ床面積2,467㎡、再建時の約3分の1。
 
館内は「佐賀城の変遷と本丸」「幕末・維新期
の佐賀」「明治維新と佐賀の群像」という3つの
テーマで日本の近代化を先導した佐賀の魅力を
紹介しています。
 
受付は白衣の美女ーーアンドロイドです。
質感などやけにリアルです。
 
廊下は全て畳敷き。廊下を畳にすること
で障子を開くと大広間になり、廊下を節約
できるという考えです。
 
なぜそんな構造にしてまで節約していたかというと
藩財政を圧迫していた長崎警護にあります。
 
直正公は藩主となった最初に”粗衣粗食令
を出して衣類は木綿に、食事は贅沢なもの
は禁止にするなど藩主自ら質素な生活を強いました。
 
さらに江戸藩邸や参勤交代の人員削減
正月の行事をやめるなど徹底的に倹約に努めます。
その功から藩の財政は徐々に回復し、幕末の変革
を担う存在になっていきます。
ーーこうした倹約さから「佐賀者が歩いた後は
  草も生えない」と言われました
 
模型から最盛期の本丸御殿がどれだけ大き
かったかを物語っています。そのうち復元
するのかわかりませんが全部復元するとしたら
どのくらい年月が掛かるのかなーー
 
江戸時代後期の礎石を覗き見することが
できます。江戸時代礎石の上にコンクリート
地盤を打ってその上に復元された建物の礎石
が載るというかつて本丸があった全く位置に復元
している凝った作り方です。
 
御座間(ござのま)は鯱の門とともに天保期の現存
する建物です。藩主鍋島直正の居室になっていて
パネルの直正公と写真撮影できます。
 
腐食して損傷が激しい箇所は新たに接ぎ木し
当時の具材を再利用しています。
藩主の部屋だというのに襖に絵が描かれておらず
ここでも倹約が見られます。
 
家臣や食事をしていた御料理の間。
佐賀が誇った偉人や科学技術など近代化
のあゆみが見られます。
 
最後に”佐賀さいこう!”と感じたら少しでも
いいので募金しましょう。本丸御殿の入館料
も駐車料金も無料という太っ腹。
 
歴史資料の保存や建物の維持費が掛かります。
あなたの募金が佐賀城復元に貢献できるチャンスですーー
 
住所:佐賀市城内2-18-1
TELL:0952-41-7550
開館時間:9時30分~18時00分
休館日:12月29日~12月31日
入館料:無料

関連サイトhttps://saga-museum.jp/sagajou/

大木 喬任(おおき たかとう)

佐賀の七賢人。1832年(天保3)に佐賀市水ケ江に生まれる。
15歳で弘道館の内寮生となり、19歳の時に
義祭同盟が結成されると江藤新平、大隈重信
副島種臣らと親交し、志士活動に参加。
 
明治政府では江藤とともに東西両都論を主張
し、名前を東京と改め1868年(明治元年)東京都
知事となる。
1871年(明治4)初代文部卿として「学制」を
公布するなど近代教育の基礎を確立。明治の
六大教育家の一人に数えられている。
ーー近代教育制度の確立に力を尽くした
  初代文部卿
司法卿民法の制定などを行い、法体制の整備
に貢献。弘道館時代につるんでいた友人が
ピンチの時は政府内を奔走したり友情をこと
のほか大切にした。1899年(明治32)死去。

ながさき 幕末維新館ーーPavilion

佐賀城から佐賀駅に向かうメインストリートには
偉人の銅像が建ち並んでいます。
 
多くのモニュメントがあるため、じっくりと説明文
を読みたいところですが数が多すぎるので気に
なった一部だけ紹介します。
 
なんと日本を代表する2大お菓子メーカーの創業者
森永製菓「森永太一郎」江崎グリコ「江崎利一」
ともに佐賀県出身です。
 
和菓子が主流の時代に西洋菓子の普及に奔走したり
グリコーゲンを使用した栄養菓子を開発したりーー
とこういうところでも佐賀県民のチャレンジ精神は
受け継がれているのだと感じました。
 
バルーンミュージアムから信号一つ進んだ先に
ひっそりとある佐賀玉屋にある幕末維新館
 
あの有名な坂本龍馬の写真を撮った最初の
カメラマンーー上野彦馬を中心とした幕末
の人間関係をフォーカスしています。
 
漫画や映像で写真一筋で多くの写真を残した
上野彦馬のことをわかりやすく学べます。
 
日本で2番目の写真館ーー「上野撮影局」では
龍馬以外にも高杉晋作、伊藤博文、後藤象二郎
といった表舞台で活躍した人物もこの撮影所を
訪れ写真を撮っています。
 
ちなみに、日本で初めて写真の被写体になった
人物は薩摩藩第11代藩主「島津斉彬」西郷隆盛
ら幕末の志士を育てた名君です。
 
また、1877年(明治10)ーーイヤな内乱、西南戦争
では戦跡を撮影し、さながら戦場カメラマン
のような働きをしたことで第1回内国勧業博覧会
鳳紋褒賞を受賞しました。
 
現在、私たちが幕末期の多くの偉人の顔を知る
ところになったのは、上野彦馬が写真術を学び
写真を残してくれた功績のおかげといっても
いいでしょう。
 
大きな文字で”ながさき”と書いてあることに疑問
を覚え、館内のスタッフに聞いてみました。
江戸時代、肥前の国は長崎の殆どが含まれており
今の佐賀県より大きな藩だったようです。
 
そのため、長崎の人にも気軽に訪れてほしいと
いうことで、ながさきのことも紹介していたという
わけです。
 
江藤 新平(えとうしんぺい)

佐賀の七賢人。1832年(天保3)に佐賀市水ケ江に生まれる。
16歳で弘道館に寄宿。優秀な思想家として
様々な著作を発表。
 
明治元年の佐賀藩の藩政改革を行ったのち
明治政府の国家制度の整備につとめる。
1872年(明治5)初代司法卿となり、司法権の
独立や人権擁護の法制化などに情熱を注ぐ。
翌年、参議になるが政変により政府を去る。
ーー近代司法制度の基礎をつくった維新十傑
  の一人
 
司法卿民法の制定などを行い、法体制の整備
に貢献。1874年(明治)佐賀の乱(佐賀戦争)
で島義勇とともに政府と戦い、敗れ佐賀城内
にて梟首刑。
辞世の句「ますらおの  涙を袖に しぼりつつ 迷う心は ただ君がため」

大隈 重信(おおくましげのぶ)

佐賀の七賢人。1838年(天保9)に佐賀市水ケ江に生まれる。
藩校に入学したものの、封建的な考えに
嫌気がさし退学。
 
26歳の時に長崎でアメリカ人宣教師フルベッキ
に英語やアメリカの憲法などを学び西洋の思想
に大きな影響を受ける
 
明治政府では財政と外交に長けていたため参議
大蔵卿をつとめるが岩倉具視や伊藤博文らと
対立し、43歳のときに官僚を辞職。
1882年(明治15)立憲改進党を組織し、優れた人材
を育てるために東京専門学校(早稲田大学)
を創立
 
1898年(明治31)わが国初の政党内閣の総理
大臣となり、1914年(大正3)には二度目の内閣
を発足。
ーー二度の内閣総理大臣をつとめあげた
  維新の元勲
 
維新で活躍した薩摩・長州の人物の多くが
栄誉職につく中で大隈重信は自らの能力
で明治政府を要職を歴任するーー
78歳まで総理を務め、歴代総理で最高齢
の記録
1922年(大正11)日比谷公園にて国民葬。

総括ーーSummary

なんとなくわかるーー佐賀の乱

 
”佐賀の乱”は明治6年の政変と西南戦争の間
に勃発した戦争。岩倉使節団が欧米からの
視察から帰国するとすぐさま征韓論を唱え
朝鮮を武力で開国させる西郷隆盛ら賛成派と
大久保利通ら岩倉使節団の反対派で意見が
真っ二つに割れた。
 
西郷、板垣をはじめ多くの官僚や軍人約600人
が辞職した中、佐賀の乱で中心人物となる佐賀藩
江藤新平が含まれる。
 
佐賀では新政府に不満を持つ者たちが集まって
いて志を同じくする影響力の大きい江藤新平が
旗頭になることは必然だった。
 
同じく佐賀藩出身の島義勇を派遣し、説得
しようとするが木乃伊取りが木乃伊。道中
佐賀藩の悪口を耳にし江藤新平と協力して
新政府に対抗する。
 
しかし、別々に司令部が存在していたため
連合軍とは名ばかりでまとまりがなかった。
佐賀城に籠城するが大久保率いる大軍の進軍
により敗戦が続いていく。
 
敗戦が続くのを見て江藤は西郷隆盛を頼り
島は島津久光を頼って鹿児島へ逃れるが西郷
は決起せず、島は途中で捕まる。
 
江藤は三権分立といった政治制度を整備した
功績がありながらろくに裁判にかけられずに
斬首刑。
ーー人相書きではなく指名手配の写真の
  システムを作った江藤自身が最初の
  ターゲットになってしまう
 
江藤新平の晒し首の写真は明治政府が見せしめ
として土産物として広く出回り、今でもggると
表示される。
 
結果として下野した官僚や軍人が中心となって
各地で不平士族の乱や自由民権運動が起こる。
最終的には、西郷隆盛率いる薩摩との西南戦争
日本最後の内戦へと至ってしまう。
 
※江藤新平の写真の閲覧は自己責任でお願いします
 
(次回)ーーヘルシーすぎるB級グルメ
     佐賀県庁でしか体験できないひととき
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